診断と真理 〜「肺炎か否か」はどうでもいい?病気を「治療する」ということ〜 第3回

3回にわたって、我々が日常診療で行っている「診断」というものの本質について考えていきます。よく言われる「診断にこだわる」姿勢は、医師として大変素晴らしいもののように聞こえます。しかし、それは果たして病気を治療する上で常に正しい態度と言えるのでしょうか?

3.診断が間違っていても病気は治る〜Temporal relationship と Causal relationship〜

皆さんは、肺炎の治療をした患者さんが元気になって退院していくのを見て、「真面目に治療した甲斐があったなぁ!」と思われるでしょう。しかし患者さんが元気になったのは、あなたが治療したお蔭ではありません。

などと言うと、怪訝な顔をする人も多いでしょう。もちろんあなたの治療が奏功して患者さんが良くなったという場合もあるでしょう。しかし第2回までで述べた通り、患者さんに「肺炎があるか否か」を知ることができない以上、あなたが採用した治療戦略が適切であったかどうかも、同様に不明確なのではないでしょうか?なかでも抗菌薬のように特異的な治療方法を用いる場合は特にこうした視点が重要です。

いま、あなたが外来で咳嗽と発熱を主訴に来院した患者さんを診察したとします。レントゲンでは浸潤影と取れなくもない微妙な陰影があり、喀痰も膿性であることからあなたは抗菌薬を内服で処方し、1週間後にフォローアップとしました。1週間後、患者さんは元気になっており、この患者さんは 「肺炎に対して外来抗菌薬加療が奏功した1例」としてあなたの心に刻み込まれました。

ところがこの1例は、印象深いのと同時に、甚だしい思い込みでもあります。いま、あなたが外来で咳嗽と発熱を主訴に来院した患者さんを診察したとします。レントゲンでは浸潤影と取れなくもない微妙な陰影があり、喀痰も膿性ではあったものの、あなたは解熱剤と鎮咳薬だけで慎重に経過を見ることとしました。1週間後、患者さんは元気になっており、この患者さんは「肺炎と類似の症候群を呈した急性ウイルス感染症が自然軽快した1例」としてあなたの心に刻み込まれました。

例えばあなたが肺炎と診断して治療をした患者さんは、あなたが抗菌薬を投与しなくても自然と治っていったただのウイルス性気道感染だったかもしれません。あるいは、あなたは肺炎と診断しましたが、本当は尿路感染に罹患していて、起炎菌である大腸菌の内服抗菌薬への感受性がたまたま良かったのかもしれません。これらの可能性について、どれが真実かを断定することは不可能です。結果として、あなたは最も可能性が高いと思われ、かつ自分の行いを美化してくれる「自分の診断に対して行った治療が奏功した」というストーリーを採用します。嫌味な言い方になりましたが、 実際に診断が微妙なケースでは「肺炎として ・ ・ ・1週間治療して、元気になって退院した」というような言い回しを聞くこともあるのではないでしょうか。 謙虚な医者ほど、こうした機微を穿つ物言いをするように思います。

ある介入が行われた後にある事象が発生したとき、その二者間に因果関係を推定したくなるのが人間の性ですし、2つの事象の間に因果関係を見出すのは人間としての大事なスキルです。肺炎を治療した後に患者さんが良くなったら、治療のお蔭で改善したと考えたくなる気持ちはよく理解できます。しかしこれは、事実だけを見れば2つの事象がそれぞれ時間を空けて順番に発生したに過ぎません。このような関係は「時間的関係 Temporal relationship」と呼ばれます。一方で、先行事象Aが原因となって後行事象Bが引き起こされた場合、AとBの間には「因果関係 Causal relationship」があります。我々が多くの事象間に直感的に因果関係を想定するのとは裏腹に、因果関係を「証明」するのは容易ではありません。なぜなら因果関係を示すには、単純にAのあとにBが起きたことを示すだけでなく、AがなければBは起こらない」ということも示す必要があるからです。しかし世の中の多くの事象間関係の推察は、すでに起きたことを対象としていますので、タイムマシンを持たない身ではどうしても不完全になります。

効果の検証には、因果関係の証明が必要です。因果関係を証明するには、注目したい先行事象以外のすべての条件を二群間で同じにして、先行事象の有無による後行事象の発生頻度を比較します。これが医学の世界で言うところの「RCT」になります。ですから、我々がRCTを批判的に吟味することの本質は、

「先行事象と後行事象の間に因果関係が成立するか調べる実験について、先行事象の有無以外のすべての条件が同じになっているかを調査する」

ということになります。条件を完璧に揃えることは不可能ですが、一定の水準を満たす必要はあります。その調査にパスしなければ、両者の関係は Temporal relationship の域を出ないと言われてしまいます。ジャーナルクラブは、我々の調査員としての質を高めるためのトレーニングと言えるでしょう。

先の肺炎の例で、抗菌薬が患者さんを治すのに一役買ったかどうかは不確実であるという議論は容易に理解できると思います。同じ患者さんを前にしても、抗菌薬を出すと言う医師と、そのまま経過を見るという医師がいて、お互いがお互いの言い分をおそらくは理解するものと思います。

では次の例ではどうでしょうか。

あなたは尿路感染症による敗血症性ショックの患者をICUで管理しています。 輸液とカテコラミン投与に加え、あなたは大学の医局での慣習どおり、血液浄化療法としてPMXを使用することにしました。PMXを開始後、患者さんの血圧は上昇、安定傾向となり、3日後にはICUを退室するまでに回復しました。この患者さんは「PMXが敗血症性ショックからの救命に寄与した1例」としてあなたの心に刻み込まれました。

良識ある医師なら「?」と感じることでしょう。これは典型的な Temporal relationship であり、それが Causal relationship と考えられる科学的根拠は細菌性肺炎に対する抗菌薬加療とは比べるべくもありません。ところがこうした治療を「当たり前に行うもの」と考えている医者が世の中にはたくさんいます。自分の診療を正当化する根拠は「科学的妥当性」と「経験的妥当性」のいずれかですので、後に記す理由により、こうした医師は皆、経験的妥当性すなわち「心に刻み込まれた印象」に支配されていると言って良いでしょう。

客観的な検証はどうでもよく、自分の気に入ったものを信じて疑わない姿勢は、一般的に「宗教」と呼ばれるものです。日本国民には信教の自由が何人に対しても保障されています。キリスト教、イスラム原理主義、〇〇真理教など、どれも他人に迷惑をかけない限りにおいては大いに結構です。しかしPMX教などは、その副作用やコストにおいて患者および医療経済に「迷惑」をかけます。こういった宗派の人々は、彼らの行う治療に科学的根拠が乏しい、それどころか有害性すら示唆されていることを指摘すると、「研究されている患者の特徴が不適切だ」とか「本邦の患者でのエビデンスはない」などと逃げの論陣を張るのが常套手段です。

しかしこれは詭弁です。理由は以下の2点です。

・国外の研究で有効性が証明されなかった場合、患者背景の異なる本邦において再度仮説を検証する妥当性はあるが、そもそも対象患者群においても有効性が示されていない治療なのだから、検証なしに公費を用いて臨床使用されるべきではない。

・国外の研究で有害性が示唆されている場合、その有害性が患者背景の異なる本邦の患者にそのまま当てはまるかは不明確である。しかし、だからといってその治療を本邦で行って良いことにはならない。「有害性が示唆されている以上は、本邦においても臨床使用に先行して検証を行うべき」というのが正しい姿勢である。

こうした宗教家が製薬会社と結託して布教活動に勤しむことができるのも、日本という国が科学的に効果の証明されていない治療の臨床使用を容易に認めてしまう規制の緩い医療国家だからです。

塩野義 新規の抗インフル薬ゾフルーザ錠を新発売(2018/03/15)
https://www.mixonline.jp/Article/tabid/55/artid/60625/Default.aspx

塩野義製薬は3月14日、新規の抗インフルエンザウイルス薬ゾフルーザ錠 10mg、 同 20mg(一般名:バロキサビル マルボキシル)を同日に新発売したと発表した。錠剤を1回服用するだけで治療が完結するため、利便性が高く、良好なアドヒアランスが期待できる。ウイルス増殖の初期段階に作用し、ウイルス増殖を抑える新たな作用機序のため、耐性ウイルスへの効果も期待されている。(中略)ゾフルーザ錠は、一定要件を満たす革新的新薬として厚労省から先駆け審査指定制度の対象品目に指定され、承認申請から約4か月後の2月23日付けで承認された。同制度対象品目の目標審査期間は6か月であり、目標からも2か月早い承認となる。そして、承認から1か月足らずの3月14日付で薬価が緊急収載され、塩野義は即日発売した。新規のインフルエンザ治療薬であることが今回の迅速な審査、薬価の緊急収載、即日発売の理由

「新規薬である」などというどうでも良い理由で迅速に(拙速に)承認を行うという理屈は明らかに狂っています。特にインフルエンザのような「非致死的」かつ「罹患率の高い」疾患では、多くの患者がその薬に曝露される可能性があるため、治療薬の有害性についても十分に検証する必要があります。しかしこの薬は、あろうことか人間に対するランダム化比較試験 (https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1716197)の結果が出るより前に発売となりました。非常に致死率の高い疾患で、その薬により救命率が飛躍的に上昇する可能性があるならば、潜在的な副作用に多少目を瞑ってでも迅速な承認が許されるかもしれません。しかしながらそもそもこの試験で検証しようとしたのは死亡率などではなく「症状緩和までの時間」です。承認する側も大概ですが、医者の側もよくこんな薬を宣伝に踊らされて無責任に処方できるものです。


『大切な人が大病を患った。毎日神様に祈っていたら、奇跡的に病気が治った。』・・・A

これは神様に祈りが届いた結果かもしれませんが、多くの人は(大真面目には)そう考えないでしょう。「祈り」と「病気の治癒」は、Temporal relationship の関係に過ぎません。しかし科学的検証という概念がなかった時代には、「神様への祈り」も「薬草を煎じて飲ませること」も、本質的には並列概念であったと言えます。今日ではただ後者に類する介入だけが科学的検証の土俵に上がっているに過ぎません。

『大切な患者が敗血症性ショックを患った。毎日PMXを回していたら、奇跡的に回復した。』・・・B

薬草の例に同じく、AとBは本来は論理としては全く相同です。Aの良いところは何でしょうか?あなたが神様に祈ることで迷惑を被る人はほとんどいませんし、おサイフ的にもノーダメージです。つまりデメリットが非常に少ない。これは素晴らしいことです。ですから祈っていただいて大いに結構。一方のBですが、PMXには金銭的コスト(手技量 2000点、材料償還価格35万6千円)、臨床的コスト(カテーテル感染、穿刺時の合併症、抗凝固薬への曝露、etc.)が必ず伴いますので、治療を正当化するにはこれらを上回るメリットが必要です。そしてBの治療には実はAにはない素晴らしいところもあり、それはメリットがあるかどうかが幸いにも検証されている、つまり科学的検証の土俵に上がる権利を得ているということです。

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs00134-015-3751-z https://jamanetwork.com/journals/jama/article-abstract/2706139

ご覧の通り、現時点でメリットと呼べるものは確認されていませんし、驚くべきことにこの治療により死亡率が高まることが示唆されてすらいます。強いてメリットを挙げるとすれば、メーカーから教団への「お布施」が集まることくらいでしょう。当然それは患者にとってのメリットではありませんし、この宗教的活動のツケを払わされているのは我々自身であることを忘れてはいけません。自己負担分は当然治療を受ける患者自身の財布から出ていくのですし、残りの「公費負担」も元をたどれば我々納税者から徴収されているのですから。

『科学的妥当性の確認されていない医療介入は、神仏への祈りに劣る』
ガラパゴスの狂気

<<おわり>>

※著者は特定のいかなる宗教的信条についても信奉、および否定する立場にはありません。

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