診断と真理 〜「肺炎か否か」はどうでもいい?病気を「治療する」ということ〜 第2回

3回にわたって、我々が日常診療で行っている「診断」というものの本質について考えていきます。よく言われる「診断にこだわる」姿勢は、医師として大変素晴らしいもののように聞こえます。しかし、それは果たして病気を治療する上で常に正しい態度と言えるのでしょうか?

2.感度特異度って一体何だ?〜 「真理を知る」ということ〜

前章で、診断することと真理を知ることは異なるということを解説しました。では、「完璧な検査」が存在しない以上、どんな場合でも「真理を知る」ことはできないのでしょうか?

疾患について言えば、その病気が我々人間によって定義されたものであるときは、その定義に合致する場合は真理を知ったことになります(というより、真理を我々が定めていることになります)。体重80kg以上を「肥満」と定義するのであれば、87kgの人は「肥満」であるというのは真理です。

しかし、この人間による恣意的定義ですら、一筋縄では行きません。貧血を例に取りましょう。いま、ヘモグロビン(Hb)値 が13 g/dL未満である場合を「貧血」と定義します。基準は性別により異なりますが、ここでは簡略化します。これは、「血が病的に薄い」ことを客観的に定義するために医師が恣意的に設けたカットオフです。再び例の表に登場してもらいます。

「眼瞼結膜の蒼白所見」が陽性のときでも、実際にはHb値で定義される貧血には当てはまらない場合もあるでしょうし、蒼白所見がなくてもHb値が13 g/dLである(貧血である)こともあるでしょう。このように、眼瞼結膜所見という「身体診察による検査」は、貧血の有無すなわち真理を知るための完璧な検査ではありません。

表2をご覧ください。この場合、bやcに当てはまる患者はいないように思われます。貧血はHb値で定義されます。目的の疾患が、ある検査方法で定義される場合、その検査方法は疾患を完璧に言い当てるための方法となるため、bやcは0となるはずです。

では、表3をご覧ください。この場合、左側は確かにHb値ですが、果たしてbやcは0と言えるでしょうか。皆さんは、ICUで患者さんのラボデータを確認するとき、中央検査室の血算でのHbと血液ガス分析でのHbの値がしばしば乖離していることに気がついているでしょうか?もし、同じ患者さんについて両者の値が異なるのであれば、表3でのbとcがいずれも0になるのは変ですね。

この場合、我々が検出したい「貧血」が、「どのHb値によって定義されるのか」を知る必要があります。「中央検査室のHb値」を貧血の定義の基準に用いるのであれば、表3のbやcは0以外の値を取り、「血液ガス分析装置のHb値」という所見は、表1の「眼瞼結膜の蒼白」という所見と並列の(同じレベルの)概念になります。ただし貧血に対する診断精度は「眼瞼結膜の蒼白」よりも「血液ガス分析装置のHb値」のほうがずっと高いことは想像に難くありません。詳細は省きますが、教科書で採用されているHb濃度測定方法(真理を定義する測定方法)は、「中央検査室の(吸光度分析による)Hb値測定」と考えられます。

次に、検査方法の診断精度を見ていきましょう。表1で、「ある検査法(眼瞼結膜の蒼白所見)」の「検出しようとする疾患(貧血)」に対する「感度・特異度」「陽性尤度比」「陰性尤度比」はそれぞれ以下のように表されます。

感度 = a/(a + c)
特異度 = d/(b + d)
陽性尤度比 = a/(a + b)
陰性尤度比 = d/(c + d)

表と上式をよく見比べて、有病率によって変化するのは感度・特異度と尤度比のどちらの指標かを考えてみて下さい。

感度や特異度というのは、有病率に左右されない(「あり」と「なし」の人数の比が変化してもa/(a + c)やd/(b + d)の値は変わらない)という意味では陽性尤度比や陰性尤度比(有病率により大きく変化する)よりも優れた指標と言えます。つまり世界中どの施設で仕事をしていても(=有病率の異なる場所であっても)利用できるのが、感度や特異度だということです。

しかしそもそも、病気の「ある」「なし」が個々の症例で確定しているという根拠は何でしょうか?これまでの議論から、よほど客観的に定量化可能な疾患でなければ、その疾患が「ある」か「ない」かを真の意味で知ることはできません。肺炎を例に取ると、仮にある調査において集めてきたサンプル集団の中で、真の意味で肺炎を有する患者(本当に肺炎に罹患している患者)をどうやって同定するのでしょうか?考えられるいくつかの方法を挙げてみます。

①「神の啓示により肺炎と判明した患者」を「肺炎あり」とする
②「レントゲンで肺炎像が見られた患者」を「肺炎あり」とする
③「抗菌薬治療により臨床的改善が得られた患者」を「肺炎あり」とする
④「病理医が病理解剖で肺炎と診断した患者」を「肺炎あり」とする
⑤「感染症の専門医が臨床的に肺炎と診断した患者」を「肺炎あり」とする

たとえば肺炎の定義は、「細菌やウイルスなどの病原微生物が感染して、肺に炎症を起こした状態」(日本呼吸器学会HPより)というきわめて定量化しにくいものです。

上の①〜⑤のうち、

①は最も正確に真理を言い当てていますが、残念ながら我々は神の福音を授かることはできません。神でなく、降霊師の言葉などは、古代では最も信頼のおける方法であったかも知れません。

②はどうでしょうか?これは上で説明したように、あくまで肺炎という真理に近づくための検査方法の一つであり、レントゲン所見の有無と肺炎の有無とは正確には一致しません。

③は悪くない選択肢ですが、果たしてあなたは「肺炎」を治療したのでしょうか?たまたま抗菌薬が尿路感染に効いた、あるいは実際には肺炎以外のウイルス感染に罹患しており、何もしなくてもその患者さんは良くなったかもしれません。やはり真理とは一致しないでしょう。

④が肺炎かどうか知る術として我々が有する手段としては最も正確なものに近いかもしれません。定義にあるように「肺」という臓器の「炎症」をかなり客観的かつ直接的に評価可能です。しかしこの定義では「『死亡に至った』あるいは『病理検体を提出できた』サンプル集団での感度・特異度」しか導き出せず、我々が出会う患者さん一般に当てはめられる指標とはなりません。

⑤も悪くない選択肢です。臨床医による総合的な判断は、単に抗菌薬治療後に改善したという事実よりも多くの要素を勘案しているでしょうし、肺炎に関しては臨床医の中でも感染症専門医の意見は特に信頼性が高いと思われます。実は感染症に関する多くの臨床研究で、この基準が対象疾患の定義に採用されています。

このように、真理を知る唯一の存在は「神」であり、それに準じる方法でしか我々は疾患の「定義」を定められないという現実があるのです。

「肺炎に対するレントゲンの感度・特異度」

などと教科書には書かれているわけですが、これは実は

「『感染症専門医が臨床的に肺炎と診断した症例』に対するレントゲンの感度・特異度」

などと書き直すのが正確です。『』の部分は、元となった臨床研究でどのような定義が採用されたかに依っています。剖検以外の方法では正確な診断が困難な疾患では、上記④のような定義を元に感度・特異度が記述されていることもあります。

長々と書きましたが、何を言いたいのかというと、

「感度◯%・特異度◯%などと言うと、非常に客観的な評価をしているようであるが、そもそも患者さんに病気が『ある』とか『ない』とかいったこと自体が判明する疾患は少なく、感度・特異度の値も真理に照らし合わせれば必ずしも正確ではない」

ということです。

・尿路感染症に対する膿尿の感度は◯%、特異度は◯%
・虫垂炎に対するCTの感度は◯%、特異度は◯%
・インフルエンザに対する迅速キットの感度は◯%、特異度は◯%

尿路感染ってどうやって診断するんでしたっけ?虫垂炎は保存的に治すこともありますよね?原因がインフルエンザだと断言できますか?皆さんの持っている教科書に書いてある感度・特異度は、一体「何に対する」感度・特異度なのでしょうか?

>>第3回へ続く