感情による納得と医療

私たちの行動様式は、主として感情的な納得に基づいている。他人に親切にする温かさを知っているから他者に親切にする。これはポジティブな感情体験による行動様式の内面化である。理想的には行動様式のすべてがポジティブな感情体験に基づいているのがよく、その人は極めて人間的な、温かい行動から健全に自己愛を補給できる人物になる。ご飯を食べこぼしたら強く叱られたから自然と食べこぼさなくなる。これはネガティブな感情体験から学習された行動様式である。実際には多くの行動様式が恐怖や罰によるネガティブな感情体験により内面化されている。しつけというのは往々にして恐怖を用いた道徳の内面化である。迷惑な行動をして親から怒鳴られ、叩かれるからその行動を避けるようになる。道徳的行動をポジティブな感情体験から内面化させるしつけは非常に難しい。いずれにしても、これらの行動は本人が「心から」納得したものであり、規範意識とは異なる形で本人の真の人格を形成する。規範意識とは、感情的納得を伴わない「押し付けられた」道徳のことだと私は考えている。それは内面化されていない道徳であり、その人の人格の外側にある。その人がいくら「優しい」行動をしているように見えても、本人が「優しくしなくては」と考えて行動しているとすれば、その行動はどこか自然さを欠き、その人は真に優しい人ではない。

さて、EBMを基軸とする医療とは、統計学に基づき、目の前の患者のアウトカムに囚われず、最大多数を救う診療行為を実践することである。長期的に見た場合、そのような姿勢は結果的に最大多数の患者を救うことになるが、現場で医療を実施する者からするとそれは必ずしも感情的に納得できるものではない。現在治療している患者が助かれば正の感情、亡くなれば負の感情が生じる。そのこと自体は極めて人間的であり、私が基本的自己愛と呼ぶもののひとつである感情の表出と言える。ただ、その感情の「正負」に基づいて自分の医療行為に満足を見出そうとすると、目の前の結果に囚われたナルシシスティックな医療の実践者となってしまう。正の感情体験を得るためだったらどんなことでも行う、結果主義的な医者になってしまう。そうではなく、正の感情も負の感情も受け入れて表出はするが、目の前の結果から自分のプロセスを振り返り、自分の診療姿勢の一貫性が保たれていることに自己愛の高まりを感じられることが医療における健全な自己愛の満たし方である。正の感情体験のみに執着することも、目の前の患者のアウトカムから生じる感情を「無視」することも、どちらもナルシシズム=「現実の否定と幻想の追求」である。姿勢の一貫性に基づく医療の実践は、満足の基準として理性を感情に優先させるという側面があり、これは一見感情の否定や抑圧であるようにも思えるが実際にはそうではない。理性から健全な自己愛を補給し、さらに感情表出による自己愛満足も得るという両立は十分可能である。そこで大事になるのは、目の前の患者のアウトカムから生じる感情の表出を正負にかかわらず許し、それに浸りつつも、その感情の正負を点数化する(正の感情をできるだけ多くし、負の感情をできるだけ避ける)のではなく、自身の診療姿勢を最適化することで結果として正の感情を得る機会を最大化することである。そのためには統計学的視点が不可欠であり、EBMに基づく医療が最適解なのである。

情緒の欠乏が常態化したナルシシストでも、満足の統計的最大化という理性から健全な自己愛補給を受けることは可能である。だがナルシシストは感情表出という自己愛満足手段を欠くことから、代償行動として成功体験という正の感情に執着しやすいという性質ももつ。また彼らは短期的な満足を求める性質のため、ある期間でみた統計的最大化というタイムラグを要する満足よりも、目の前の成功体験という快感に目を奪われやすい。目の前の成功体験は、ナルシシストに強烈な快感をもたらす。それは操作感であり支配感、誇大感、万能感である。それは彼らの心に強い納得をもたらす。過去の成功体験がある種の医者の行動を強烈にドライブするのはこのためである。そこでは成功体験を得るために自らが用いた手段は問われない。結果としてその医療行動は、いくら外部から標準的医療という「道徳」を提示されても、内面化されている彼らの成功体験によって弾き返されてしまう。標準的医療という即時的快感をもたらさない行動様式は、成功体験という蜜の味を知っている彼らを納得させることができない。ヒューマニストが患者アウトカムから感じる正の感情や負の感情は、ナルシシストの感じるそれとは性質を異にする。ヒューマニストは、共感により相手の辛さや喜びを感じ取り、それを体験として蓄積する。ヒューマニストにとって、患者のアウトカムから得た正負の感情体験はどちらも価値のあるものである。彼らにとっては感情に浸ることそのものが価値ある体験である。だからかれらは正の感情ばかりを得ることにも執着しない。負の感情も彼らにとっては充実感につながる。ナルシシストは、患者を私が救済したという誇大感を自分の価値を増すもの、救済に失敗したという屈辱感を自分の価値を減じるものとして蓄積する。ナルシシストにとっては負の体験は敗北を意味する。だから彼らは正の感情体験、すなわち誇大感の獲得に執着する。操作欲求の強い彼らは、負の体験が自らの行為の結果であると因果的に考えやすい。だから彼らは自分の無力さを否定するために誇大感を与える正の感情体験、すなわち成功体験に固執するか、失敗しても過剰に他責的に考えることで自分が本当に反省すべき点から目を逸らす。ヒューマニストは負のアウトカムを自分の行動と短絡的には結び付けない。負の感情体験に際しても、彼らは真っ先に自身の一貫性に注目する。彼らは失敗から自らのプロセスを正しく振り返る。ヒューマニストであってもできれば正の感情体験を多く蓄積したいし、彼らのプロセス主義的な考え方は、結果的に正の感情体験の獲得機会を最大化する。

ナルシシストであっても、中には成功や失敗により生じる感情を自らの医療行為の結果と短絡的には結び付けずに考えることができる者もいる。負の感情を屈辱的に体験しても、それを理性で覆せる地頭の良いナルシシストである。彼らがそのように考えられるようになるには第三者の手引きが必要である。そうした者は仕事においてはよき師の導きによりプロセス主義者となり、健全な自己愛補給を受けることも可能である。だがそれでも、彼らの理性的な自己愛補給方法は感情的な納得には裏付けられにくい。彼らは心の底ではあくまで失敗を屈辱的に体験している。そして何より彼らは情緒を喪失しているため、個々の患者のアウトカムからヒューマニストが感じるような喜びや辛さといった真の感情体験を得ることができない。それは医療の実践者であることの恩恵を半減させるものである。