研修者の心得

1.学習の本質
医学教育において、初期研修とは軸を持たない者に正しい軸を持たせる段階である。初期研修医はほとんどの場合、自らの診療の軸すなわちポリシー、ものの考え方、信念が確立していないため、決断に自信が持てず優柔不断であり、診療の「結果」からしか自らの診療行為を評価できず、行為の成否に自己評価が左右される。この結果主義的態度を次第に過程主義へと変化させていくのが正しい教育の方向である。この方向性はERやICUでの教育に限ったことではない。初期研修を通して、またその後の生涯学習においても、正しい診療信念の確立とその洗練が学習の本質である。

2.ポリシーの洗練
初めのごく短期間、指導者は研修者に対して実際に行われる行為を修正するようにアプローチすることがあるが、それはあくまで未熟な思考過程から生まれた行為により患者に害が出ないようにするための方策である。研修者は、できるだけ早期に、指導者の確認なしに実行してよい医療行為とそうでないものの区別をつけなくてはならない。それができないうちは、逐一確認をするべきである。確認なしに実行してよい医療行為の領域は研修者の成長とともに拡大するが、はじめは極めて小さい。薬剤の投薬のようなわかりやすいものから、X線の被爆、果ては検査項目ですら、コストという害が伴うことを研修者は自覚するべきである。研修者の「行動」を修正することは教育の本質ではない。指導者は研修者が診療ポリシーを自己形成、洗練できるようにしなくてはならない。これが教育である。それは結果を最適化するための思考様式(思考プロセス)を身に付けさせることである。結果を最適化するための思考プロセスは、結果が最適化されている(と研修者が心から感じる)指導者に内在するプロセスを模倣することから始まる。ロールモデルの発見である。研修者のあるべき学習態度は、モデルとする指導者がどのような思考プロセスで診療に臨んでいるのかを発見、理解し、それを内面化することに尽きる。そして模倣したプロセスを核として自らもそれに従った医療を実践し、プロセスの方向性が正しいことを実感するとともにそこで生じるトラブル、失敗を材料としてさらに自分のプロセスを洗練させるというPDCAサイクルを回し続けることである。トラブルに際して反省する対象は結果ではなく常にそれをもたらしたプロセスである。より洗練されたプロセスからは統計的にはより好ましい結果が得られるが、個々の事象においては必ずしも好ましい結果が得られないことも研修者は心得ておかなくてはならない。例えば挿管する際のポリシーを最適化していたとしても挿管困難や挿管時の心停止は一定の確率で起こるし、抜管するためのポリシーを最適化していたとしても再挿管は一定の確率で起こる。より大きなスケールでは、ERやICUでの診療ポリシーが最適化されていたとしてもERでの致死的疾患の見逃しやICU死亡が一定の確率で起こる。問題は個別の失敗ではなく、失敗に際してポリシーが本当に最適化されていたかを振り返ることである。めまい診療で脳卒中を見逃したのであれば、自身のめまい診療が本当に必要なステップ(問診項目、診察項目、精査の基準)を踏んでいたかを振り返る必要がある。デスカンファはICU死亡という「失敗」からICU診療ポリシーという過程を振り返るという認識のもと行われる必要がある。振り返った結果、そこに至るポリシーが最適化されていたのであれば、次に同じ状況が訪れても自分の診療を変更する必要はない。これが正しい「振り返り」である。ポリシーの洗練は、本来は研修者自身により行われるものだが、そこに指導者の役割があるとすれば、それは指導者が研修者に内在する思考プロセスすなわち研修者に形成されつつある診療ポリシーに注目することである。思考の「結果」ではなく、そこに至る思考「過程」に誤りがみられたとき、そこを研修者自身が納得して自ら修正するよう導くことが研修者の信念の洗練につながる。そこでは指導者の信念は研修者が内面化しうる一つの例として「提示される」に留められなくてはならない。指導者は己の提示する信念が正しいと確信している=腑に落ちている必要があるが、それでも研修者が指導者の提示した信念を内面化するかどうかは研修者の「咀嚼」という能動的学習の結果次第である。この最も大事な咀嚼の過程を十分に(=研修者自身が納得するまで)踏まない研修者が多く、教育が日の目を見ずに終わる。指導医のやり方を内面化せず真似しているだけでは成長にはならない。診療行為の根拠を問われたとき、「指導医がこうやっていたから」と答える研修者の学習姿勢はこうした理由で誤っている。彼らは知識を内面化せずただ「保有」しているだけである。そうした学習態度がポリシーなき結果主義の医者を生む。

3.結果主義と過程主義
実際の医療においては、正しいことを言い、かつそれを無理なく実践できている者の思考過程、診療ポリシーに注目することが研修者に健全な成長をもたらす。医学的に正しいことであってもそれを強引に実践することは正論を振りかざすことでしかない。今日で言えば、EBMをベースとしながら、日本の医療制度という制約の中で妥協点を見出すことが重要である。海外で学んだ者の発信する情報はEBMの観点では非常に参考になる一方で、そうした者が日本の医療の現場に馴染めずにいることをしばしば目にする。それは彼らがEBMの「実践」に固執しているからである。重要なのは「実践すること」ではなく「実践しようとすること」である。この違いは小さいようでとてつもなく大きい。健全な医療とは「結果を最良に保つ」ことではなく、「信念=プロセスを最適化しながら一定に保つ」ことであるということを肝に銘じる必要がある。前者が結果主義、後者が過程主義である。EBM実践への固執に代表されるような結果主義は不要な摩擦を生み、何よりも結果に固執することでポリシーの不安定化につながる。診療姿勢の一貫性の欠如は、当人に自信を失わせる。我々が目指さなくてはならないのは過程主義である。だが制度や環境の制約との妥協とはいえ、EBMとあまりにかけ離れ、患者に害をなしているような医療が実際に行われているような場合には、我々は摩擦を覚悟の上で声を上げ、現実改変を実行しなくてはならない。「患者への害」は目には見えづらいことも我々は理解しておく必要がある。1000人を治療したら900人を救える治療が存在するのに、自分が1000人のうち800人を救える治療を行っていたとしても、個人がそれを認識することは難しい。

4.研修者の学習態度
学習において、指導者の意見を聞くことの本質は正解を得ることではない。他者からの意見を手にしたのなら、それを何らかの方法で自分でも検証する作業が必要になる。それによって回答者の言っていることが本当に正しいのかを自らが判断するところまでがワンセットである。それは「腑に落とす」作業であり、知識の「内面化」のために必要な過程である。腑に落ちた知識のみが内面化されて自分の診療ポリシーの一部となる。研修者が他者からの答えを寄せ集めてコレクションしても、それは研修者の診療ポリシーを構成するものとはならない。ポリシーとして内面化されるには「咀嚼」と「納得」が必要である。それは検証、吟味することである。いくら教科書や文献を読み漁っても、それを片っ端から鵜呑みにしていたのでは外骨格だけで中身のない人間が出来上がる。そうやって学んできたものは、自分自身にどこか薄っぺらい感じを抱いているし、周りからも薄っぺらく見える。自分の腑に落ちた思考様式だけが内面化されて信念の核となる。ひとたび信念の核が形成されれば、それを軸として外部から提示された意見を吟味できる。軸に反することはいくら正答として提示されようとも内面化する必要がない。軸ができた状態で教科書や文献を読み漁ると、取捨選択ができるようになる。つまり批判的に評価ができる。その状態で自分の信念と異なるものを新たに内面化する必要を感じるとすれば、そこまでに築いた自分の信念には最適化の余地があるということを意味する。そこで自分の信念を柔軟に変化させ、より良いものにすることこそが「信念の洗練」である。研修の早期では信念の可塑性は大きいが、ひとたび誤った信念を内面化してしまった者が、それと大きく異なる、しかし第三者的に見てより正しい信念に出会ったとき、自分の信念を更新するには勇気が必要である。その勇気を持てずに、更新されるべき信念に固執する者は多い。完全無欠の診療ポリシーは存在しないという認識、すなわち「自分のポリシーには常に洗練の余地がある」という態度が最も健全な学習姿勢である。その意味で、初期研修の早期に健全な信念を備えた指導者に出会えるかどうかは自身が成長を続ける上で極めて重要である。

5.質問することの意義
ここまでで述べた通り、質問は「正解」を得るためのものではない。研修者は、自身の思考過程やそこから導かれる結論が指導者のそれと一致しているかを確認するために質問するのである。すなわち質問とは「答え合わせ」のための作業である。指導者と「結論」が一致しているだけでは何も保証されない。重要なのはそこへ至る思考過程が一致しているかどうかである。その思考過程の集合体がその人の診療ポリシーである。研修とは、個々の事象についての思考過程を「答え合わせ」による納得を通して内面化し、洗練させ、自身の診療ポリシーを固めていく作業に他ならない。多くの教科書や文献は自身の思考過程の妥当性について細部までは答えてくれない。非対人的な対話のみから「納得」を得るには研修者自身に並外れて高い能力が要求される。そうした能力者であってもなお対人的対話を補助的に必要とする。例えば論文を細部まで読み込んでも、その上でなお残る疑問は著者にコンタクトを取って確認せねばならない。医師であっても大多数の研修者は非対人的対話のみでポリシーを洗練できるほどの高い学習能力は有しはいない。したがって成長のためには多くの対人的対話を必要とする。ほとんどの研修者にとって、室の高い指導者への「答え合わせ」無しには真の成長は不可能である。

6.プレゼン/ラウンドの意義
教育的観点からは、ERにおける指導医へのプレゼンテーションやICUにおけるラウンドは、研修者が自らの思考過程から導いた結論を指導者に提示し、その正否をもとに自らの診療ポリシーを洗練するための「答え合わせと振り返りの場」である。つまり導いた「結果」を手段として「過程」を振り返る機会である。したがって、プレゼンやラウンドにおいて研修者は結論に至る思考過程を言語化しなくてはならないし、「答え合わせ」の結果が指導者の結論と食い違った場合には自分の思考過程のどこに洗練の余地があるのかに目を向けなくてはならない。プレゼンに際して研修者が心得るべきことは、

1)結論の提示なしには診療ポリシーの洗練すなわち成長はあり得ないこと
2)提示した結論の正否自体は評価の対象ではないこと

の2点である。つまりいくら間違った結論を提示したとしても(それが実行されて患者に害が及ばない限りは)非難される謂れはない。一方で結論やそこに至る思考過程を提示しなかったり、手持ちの情報だけを提示して思考過程や結論を示さず指導者に答えを求めることは研修者の怠慢であるという認識が必要である。

プレゼンやラウンドにおいて、研修者と指導者との問答が有意義になるためには、研修者は結論に至る思考過程を指導者に対して明示するよう心がけなくてはならない。指導者もまた、研修者の結論だけを修正するのではなく、思考過程を示した上で結論を提示することが求められる。そこで導かれる結論とは、思考過程の必然の帰結でしかない。したがってモデルとされるような指導医には研修者に納得をもたらす高い言語化能力が求められる。自らの結論の背景にある思考過程を言語化できない指導者からは研修者はポリシーを洗練することができない。

7.勤務中の学習
冒頭に述べたように、学習の本質とは診療ポリシーの洗練である。はじめてERやICU研修に臨む者は、ほとんどの場合でそれまでの自分の診療ポリシーを大幅に更新するか、診療ポリシーを一から形成する必要に迫られる。まずは自分のこれまでの信念に洗練の余地があることを素直に認めることである。余計なこだわり(=今ある信念への固執)を持つことは自身の成長の妨げにしかならない。その上で、最も効率よく学習する方法は健全な診療ポリシーを有すると信じられる指導医のポリシーを理解、模倣しようとすることである。よって研修者の注力すべきことは、教科書を読むことでもなく、カルテを書くことでもなく、指導医の一挙手一投足に注目することである。指導医がベッドサイドにいたら、何をしているのかに関心を持つ。指導医が患者に説明をしていたら、何をどのように伝えているのかを傍で聴く。指導医が検査や点滴をオーダーしたり変更したら、その背景にある思考過程を考える。さらには指導医がベッドサイドにいなかったとしても、患者に投与されている薬剤の種類や量、人工呼吸器の設定、ディスポジションなど、そこにある全ての「現実」が指導医の思考過程の結果だということに気がつけば、それら全てが指導者の思考様式、診療ポリシーを発見する機会となる。そうした現実に注目できた研修者が、その背景にある思考過程を推察して仮説を立て(咀嚼)、その仮説が正しいかを指導者に確認する。このような問答が研修者に納得をもたらし、自らの診療ポリシーが洗練されていく。よって正しく研修が行えている初学者は、勤務時間の大半をベッドサイドと指導者との往復で過ごすことになる。