自己愛の必要量と適応戦略

その人が健全に得られる自己愛、すなわち基本的自己愛や健全な信念による自己愛よりも、その人が必要とする自己愛量が上回っていると、それは不健全な形で供給路を見出す。心の健康な人は、この健全に得られる自己愛量が十分大きく、その人が生きる上で必要な総量をそれだけで満たしてしまう。だが多くの人が、必要とする自己愛が健全な量であっても、それに見合う健全な自己愛を現実に得られていない。それは主に適切な親子や兄弟、家族、友人間の情緒的交流の欠如による。そのため彼らは何らかの形で自分の必要自己愛量を満たそうとする。それは他者に対する優越であったり、支配であり、これが兄弟間、友人感の不仲となって表れる。学校社会における競争の奨励は、こうした自己愛満足方法に正当性を与えてしまう。さらに年齢を重ねると、彼らは様々な方法での不健全な自己愛満足の方法があることを学習する。経済力は、それ自体が優越性の証となって自己愛満足に寄与するほか、モノの所有、そして様々な趣味を可能にすることを通して間接的にも不健全な自己愛満足を提供する。業績もまた、仕事による社会奉仕という免罪符を与えられた自己愛満足の方法と見ることができる。だがこれらが結果としてではなく目的として追求されるとき、往々にして周囲との人間関係が犠牲になる。こうした不健全な自己愛満足のうち、社会的に正当性が与えられるものは、いずれも現状に満足できない者がナルシシスティックな幻想を抱き、現実の自分を幻想に一致させようとするものである。一方、過食やゲームへの没頭などは社会的には高い正当性を与えられないが、同じく不健全な自己愛満足の供給路として機能する。この種の不健全な自己愛行動は、歪んだ形で身体に影響を与える。過食の表現型は肥満であり、ゲームや勉学業績への没頭は視力障害をもたらす。アルコール中毒やタバコ依存も同様である。若くして異常な業績を上げたり、高い学歴を有することも、これと同じように解釈することができる。日本において医師の資格を取ること、特に一流大学医学部へ進学することは、それを目指すほとんどの者にナルシシスティックな学問姿勢を要求するものであり、自己愛不全を抱えた者の行動の結果とも捉えられる。

現実と幻想との乖離の程度、あるいは身体や人間関係の歪みの程度は、そのまま必要自己愛量と現実に得られている自己愛量との乖離の程度に置き換えられるだろう。自分が必要とする自己愛量と現実の自己愛満足が乖離したとき、取られる戦略は2種類に大別される。必要量を現実に合わせようとした結果が回避性パーソナリティ、現実を必要量に合わせようとした結果の極端なものが自己愛性パーソナリティという見方ができる。自己愛性パーソナリティも回避性パーソナリティも、根底には健全な自己愛満足の絶対的な不足がある。

不健全な自己愛満足には満足の持続性がない。それは瞬間風速的には自己愛満足をもたらすが、すぐに欠乏感を生じる。業績を追求する人が次々に何かを達成し「続け」ないと満足しないことは、組織の成長や繁栄には寄与するが、それは彼らの不健全な自己愛満足が刹那的であることの裏返しでもある。それは底の抜けたバケツに水を貯めようとするものである。温かな人間関係や、健全な信念の実践から得られる満足には持続性がある。信念からくる一貫性は積み重ねるほどに本人に充実感をもたらし、個々の情緒的交流は思い出となって長期的な満足をもたらすのと同時に、築かれた人間関係もまた刹那的なものではなく、人付き合いとして繰り返し情緒的交流を生む機会を提供するという意味でも持続性がある。

自己愛の必要量の肥大も縮小も、充実した人生を送る上での最良の戦略とは言えない。最良の方法は、自分が得ている自己愛満足のうち健全な部分を増やすよう努力し、それを本来人間が得て然るべき健全な大きさに近づけていくことではないだろうか。

不健全な自己愛補給の表現型

不健全な方法で自己愛を補おうとすると、心身に何らかの無理がかかる。心理面では人間関係が犠牲になり、身体面では様々な不調を呈する。視力の低下は現代ではほぼ不可避となってしまったが、それは学力主義、ゲーム、スマホといった過剰な近距離視が習慣化した結果と言える。肥満や糖尿病は過食偏食という自己愛補給が慢性化した結果を見ている。アルコールに依存しなければ肝臓を早期に壊すことはなく、タバコに依存しなければ肺を壊すこともない。芸術への過度な没頭はしばしば親子関係や友人関係に負の影響をもたらす。趣味への没頭が正常な人間関係を阻害することもある。人間の自然状態を逸脱させる行動は基本的に全て不健全な自己愛の表れであるとみてよいだろう。それはなにも生活習慣病に代表されるような病気に限らない。耳に穴を開け、毛根を意図的に破壊し、顔や体の形を変え、筋肉増強剤を使い、少なくなった髪を増やし、質の変わった皮膚やその皺を塗り物で隠そうとすることで自分の理想イメージに近づき満足を得ようとする。その全てが不健全な自己愛補給の試みであり、幻想追求、ナルシシズムである。頭髪を思い通りに整えること、眼鏡のフレームを選ぶこと、そして服を選ぶことさえも、この視点からはナルシシズムである。その人の身体、そして人間関係を見れば、その人の自己愛の健全性がわかる。

「こだわり」と心の成熟

こだわりを生じずに心を成熟させる人に迷惑をかけていることに気が付かず、自分の感じるように行動する人がいる。こういう人は心は健全だが、社会生活を営む上で身につけるべき道徳を身につけていない。道徳とは、「親切にする」「誠実である」「他者を思いやる」といった古典的道徳教義に類する信条である。ほとんどの人は、不足する自己愛を補うために、あるいは親など周囲のナルシシズムに巻き込まれることで古典的道徳以外の不健全な信条も身につけながら心を発達させる。後者は「こだわり」と呼ばれ、しばしば自己中心性を孕み、人間関係を犠牲にする。「1番になる」「他に優る」というこだわりはその典型である。社会生活を営む中で、いかに「こだわり」の発達を最小限にしながら健全な信条を内面化できるかが、人間の成熟にとっての鍵となる。理想は古典的道徳教義のみを内面化しながら成長していくことだが、そのためには基本的自己愛、特にナルシシズムに冒されていない養育者を基本とする豊かな人間関係に恵まれることがどうしても必要である。だがこれは当人の生育環境に大きく依存したもので本人にはコントロールできない。彼らはやがて、「競争」という自己愛満足方法が社会的に是認され、養育者からも評価されるものであることを集団生活の中で発見する。それは競争を奨励する家庭環境においてであるかもしれないし、学校という集団組織においてかもしれない。幼少期に情緒的交流に恵まれなかった者は、親から古典的道徳教義を身につけられない。集団生活において、道徳をある程度身につけられたとしても、彼らは自己愛の不足から同時に「こだわり」も身につけざるを得ない。そういう者にとって、人間的成熟とは「こだわり」から脱却していくことであり、それは豊かな人間関係から情緒的交流により自己愛補給を受ける術を手に入れることである。生きるためにはそれぞれの者に固有の一定の自己愛量が必要であると考えるなら、こだわりにまみれた者がこだわりを急に捨て去ることはできない。こだわりの放棄はその人に自己愛の急速な不足を生む。放棄したこだわりから得ていた自己愛補給を受けずに済むには、他の自己愛でそれを補う必要がある。それは本来であれば基本的自己愛、中でも他者との情緒的交流による健全な自己愛満足以外にはあり得ない。だが実際には多くの者がこのことに気付かない。彼らは人生の後半で初めて経験する大きな挫折によりそれまでの主要な自己愛供給路が絶たれた時、他の不健全な供給路を求めてそれを補おうとする。それはアルコールであり、過食であり、業績であり、SNS上での承認であり、趣味であり、他者に対する搾取的行動や優越性の確保を目的とした行為である。これらは全て、自分が本当に欲しているものを直視できない、あるいは欲しているものが得られないために取る逃避的行動である。彼らが真に再生するには、まず自分が欲しているのが情緒的交流であることを直視する必要がある。そしてそれが得られていないことを認める。その上で、まずは今ある人間関係を大事にする。いままで自分が他者と不健全にしか関われていなかったとしても、自分に関わってくれる人との関係を大事にする。今まで不健全な人間関係しか持てなかった人が直ちに他者と情緒的交流を持つことは難しい。だがそれを他者の助けを借りながら少しずつ変え、対人、非対人を含めた不健全な自己愛供給路に依存し過ぎないよう注意しながら少しずつそこから脱却していく。自己愛供給の健全さ/不健全さが認識できるようになれば、自分が不健全な自己愛供給にどれだけ依存しているかがよく分かるようになる。自分が何かに「ハマり」過ぎていればそれと気づくことができる。自分が何からどの程度自己愛供給を受けているかを客観視し、それを自身の心の成熟のバロメーターとするのである。

再生を始めたナルシシスト

何かに憧れるということ。憧れの対象はしばしばその対象の業績、成果にある。巧みなピアニストへの憧れ、高学歴や社会的成功に対する憧れ。こうしたものはに憧れて努力すること自体は不健全ではないが、それがナルシシスティックな努力でしか叶わないと気づいたとき、健全な心の持ち主は、それを諦めることができる。なぜならそこへ到達するためには色々なものを犠牲にしなくてはならず、そこには他者との情緒的交流も含まれるからだ。健全な心の持ち主は、情緒的交流という最も大事な自己愛満足を放棄してまで何かに没頭しようとはしない。彼らは結果でなく過程、姿勢に学ぼうとするから、その結果が情緒的交流を犠牲にするナルシシスティックなものだと分かると、もはやそれを追い求めない。だがナルシシストは、もともと情緒的交流の能力を欠いていいるため、そのことに気がつけない。更に彼らは、情緒的交流と同様に最も基本的な自己愛である眠気や空腹の解消にも無頓着であるから、それらを容易に犠牲にして結果追求に走ることができる。ナルシシストが再生の道を歩み始め、彼らが十分な睡眠や空腹の解消、そして何よりも情緒的交流による満足を実感し始めると、もはや不健全な自己愛満足がそれに及ぶものとは思えなくなる。今までのような成功者への羨望は弱まってくる。そうして初めて、現実の自分に自信が持てるようになる。それは今までの自分の価値観から見れば向上心を欠いた、不完全な落伍者に映っただろう。だが再生を始めた彼らは、もはや飽くなき向上心が人生の目的ではないと知っている。彼らはより良い結果ではなくより良い姿勢の追究こそが人生の目的だと気がつく。今まで価値を置いてきた業績や社会的成功への羨望というものがいかに不健全な心の動きであるかに気がつく。今や彼らの価値基準は、それまでとは180度異なるものになっている。

傷つきの回避戦略

ナルシシズムがもたらす人との摩擦による傷つきに対する戦略は人それぞれである。ある人は傷つきから逃げることで心の平穏を得る。回避性パーソナリティである。それは情緒の交流による本質的な自己愛満足を放棄し、人との関わりを必要としない自己愛行動により自分を満たそうとする。人生の価値が情緒的交流にあるとすれば、それは人生への期待を棄てた行動とも言える。そういう人は一時的には逃げても良いが、もっと人生に期待して、人との関係に敢えて飛び込んでいく選択ができることを知っておいて損はない。逃げるという選択肢を手にした上で、楽園を探してみればよいのだ。それには多少の勇気、そして人格の整った他者の助けが必要になる。またある人は、他者に尽くすことで承認を得ようとし、自己愛を満たそうとする。依存性パーソナリティである。自己愛を人との関わりにおいて満たそうとする点では一歩進んでいるが、その関わり方はやはり不健全な自己愛満足を得るやり方である。彼らはありのままの自分でも他者から承認されるということを知らない。承認依存症の彼らは人との関わり方を根本的に改めることで健全な自己愛満足を得ることができるようになるだろう。またある人は傷つきに鈍感になり、不足する健全な自己愛満足を放棄せずに他のもので補おうとする。自己イメージを肥大/固定させ、それを追求しイメージに自己を重ねることで自己愛を満たそうとする。自己愛性パーソナリティや強迫性パーソナリティである。強迫性パーソナリティは人との関わりよりも自分の行動の完遂、目的の達成、完璧を優先してしばしば他者との関係を破壊する。幻想追求型の人間である自己愛性パーソナリティは賞賛依存症であり、他者から承認されるであろう主観的な「イメージ」を自分勝手に作り出し、不健全な自己愛満足のために他者を巻き込み、自己の行動を他人との良好な関係構築に優先させてしまう。

結局、人が本質的に満たされるためには、どんな不健全な自己愛行動も他者との情緒的交流に優先して行ってはならないのだ。すべての不健全な自己愛行動は、他者との良好な関係構築の手段やきっかけ以上の意味を持たない。どれだけ夢中になって取り組んでいることでも、ひとたび親友に話しかけられたら中断しなくてはならない。中断したいという気持ちになるのが健全な人間の心の動きである。

「コミュニケーション依存症」はない

アルコール依存、ニコチン依存、恋愛依存、セックス依存、仕事依存、趣味依存。いろいろな依存症があるが、「コミュニケーション依存症」というものは存在しない。人間はみな、情緒的交流という意味での人間関係に依存しているのが当然だからだ。そういうコミュニケーションにはいくら依存してもそれは病的ではない。他人にしつこく絡んでいく人は、本当の意味でのコミュニケーション=情緒的交流ができないから、人から賞賛や承認を得るために人に絡んでいく。そういう人の「コミュニケーション」は、常に一方向的である。それは承認依存の表れであってコミュニケーション依存の表れではない。そうした対人関係からは、自己愛の本質部分を満たすことは決してできない。

情緒的交流

「情緒の交換」とは何か?それを言葉で説明するのは難しい。だが誰かと一緒にじっくり話す時間を過ごしたあと、もうその日は何も食べなくても良い、性欲の満足に耽らなくても良い、趣味の時間に浸らなくても良い、そんなふうに感じられるとき、人はその相手と情緒の交換がうまくできたと言えるのではないだろうか。例えば食事なども、会話が弾んで腹を割った話ができている時などは、意外と食事の量は少なかったりする。情緒的交流のない家族が囲む食卓は、食事の質や量でそれを補おうとする。恋人とたっぷり時間を過ごしても、その日の終わりに酒を飲まないと落ち着かない、セックスしないと気が済まない、お菓子を食べて満腹にならないと満足しないのなら、その相手とは情緒の交換が満足にできていないのかもしれない。

不倫は悪か

不倫というものにも二つの面があるだろう。性欲を満たすための関係、自分を礼賛する者を得る手段としての不倫であれば、それは不健全な自己愛満足を目的としており、アルコールに依存するのと変わらない。しかしそれが相手との情緒的交流を目的として行われるなら、それは極めて健全な心の動きと言えるのではないか。不倫は社会的には許されないというだけで、その中身を我々は一歩進んだ視点から理解する必要があるだろう。不倫をする方にもされる方にも、満たされない自己愛という問題がある。それは夫婦間の情緒的交流の不足を原因としている。片方だけが不倫をしている場合でも、相手方も不倫以外の何らかの他の手段、おそらくは社会的に許容される手段を用いて満たされない自己愛を補給しているのだろう。それは健全なものであれば友人などとの情緒的交流であろうし、そうでなければ趣味への没頭、あるいはアルコールへの依存かもしれない。社会的な道義とは裏腹に、自己愛の満足という観点からは実は不倫をしている方が人間としては真っ当な方法で問題の解決を試みている場合がある。

点と線、ライフイベント

就職、結婚、出産といったライフイベントはそれまでの生き方の結果であると同時に、それを見直す手掛かりを与えてくれるものである。そうしたイベントを目的化してしまう人生は、そこへ向かう自身の姿勢の一貫性を失わせ、人格の涵養が妨げられる。経験をすることが目的ではなく、自分に素直に行動した結果、特定の経験を積み重ねることになるのである。自分の人格のベクトル上にある石に飛び移りながら生きるのが正しいのであり、目の前に現れた「なんとなく良さそうに見える石」に無差別に飛び移るのとは違う。「点と点を繋いだら1本の線になっていた」という生き方は正しいが、それは自分の中に人格というベクトルが形成されている場合の話である。そうでない者はただ興味の赴くままに様々なことに挑戦するが、それらに一貫性がないためそれは何ら充実感をもたらさない。彼らの飛び移る石は1本の線上にはない。ベクトルが定まっている人は、飛び移る石の数が少なくてもそこに大きな充実を感じることができる。であるから、他人と経験の有無を比較して優劣を感じることは無意味である。経験の差は生きる姿勢、すなわち人格によって自ずから生まれるものであり、経験が異なることこそが人が固有の人格を有することの証なのである。たまたまある人の人格のベクトル上には10個の石があり、別の人のベクトル上には5個しかなかっただけなのだ。人生を充実させるものは石の数ではない。石の数を競ったり、その中の特定の石を必須の通過点のように考えて押し付けることは、その人に固有の人格を放棄させることであり、それは結果主義、ナルシシズムを植え付ける危険な発想である。ただし人格が整った者のほうが、人として自然なライフイベントを経験する可能性は高くなる。親友を持つこと、結婚すること、子を持つことはこうしたイベントに属するだろう。そうしたイベントを経験できないことは、ある意味では失敗と言えるが、それは同時にその人の人格の反映であり、その人が自身の生き方を省み、人格を磨くためのチャンスとなる。一方で、現代ではこうした「自然な」ライフイベントである結婚や出産が目的化されて久しい。そこでは、これらのイベントはベクトル上に当然現れた石としてではなく、「飛び移らなければならない石」として捉えられる。人格の整っていない者がそうしたイベントを経験しても、充実感を得られないのはこのためである。「出会いがない」のではなく、「出会わない生き方をしている」のである。結婚や出産は、必然的に他者を巻き込む。そこで巻き込まれた者は、不健全な自己愛満足の対象として扱われ、健全な人間関係を構築する機会を奪われ、その能力を破壊されてしまう。

心の柔軟性

病気になったとき、そればかりに心が囚われてしまうことがある。病気でなくても、ちょっとした体の不調がやけに気になってしまうことを我々は経験する。それは一見、病気そのものが大きな問題であるように見える。だが実際には、病気や不調そのものよりも、それが気になってしまう心に問題がある。例えば飛蚊症は、何かに夢中になっている時には気にならない。人との心の通ったコミュニケーションの最中には気にならない。充実した時間を送っているときは、一日中気にならないこともある。だが本人が満たされていないと、それは途端に意識の大部分を占めるようになる。人格が整い、ナルシシズムから抜け出すことで、人はトラブルから感じるストレスを小さくすることができる。大病に冒されても、それを健全に受け止めて対処することができるようになる。それはまるで、凝りをほぐして体の柔軟性を高めると、枕や布団は変わっていないのに寝心地が良くなることと同じである。心の柔軟性は、ナルシシズムによって失われ、こだわりという「凝り」を生じる。この凝りをほぐしていくことが、ナルシシズムに冒された人が生きづらさから解放されていくための正しい道である。我々は皆、心理的に最後は硬い床の上で裸で寝なくてはならなくなる。それは老いることで不健全な自己愛満足供給路を全て失った状態である。その時、どのくらい人との関わりから健全に自己愛を補給できるかで、硬い床の上での寝心地は天国にも地獄にもなりうる。