幻想と現実の境目はどこにあるのか

「便利な世の中」は、現実のラインが少しずつ幻想側にシフトしてきた結果もたらされたものである。太古は日が落ちたら昼間のように活動することは幻想に過ぎなかったが、火や電気の使用によりその幻想は現実化した。その都度狩りに出なくても食料を得られる世の中はかつては幻想に過ぎなかったが、保存技術の進歩によりその幻想も現実化した。何時間もかけないと隣の町に行けなかったのが、車や電車の発明により数分で行けるようになった。直接会わないと話ができなかったのが、電波や電話の発明によりどこに居てもやり取りができるようになった。大病に罹ったら死ななくてはならなかった、あるいは重い後遺症は必至だったのが、薬の開発により元の健康を取り戻すことができるようになった。だが例えば不老不死幻想は未だに幻想のままである。その時代の現実は常に少しずつ幻想側へとシフトすることで次世代の現実が形作られてきた。

こうした「幻想の現実化」の例は枚挙に暇がない。社会の進歩、文明化とはすなわち幻想の現実化と同義であり、その根源は現実否認と幻想追求、すなわちナルシシズムである。いつの時代も、現実を受け入れられない者が常軌を逸した熱量で幻想を現実化しようとしてきた。大きな変革であればあるほど、そこには誰かの多大なエネルギーが投入された痕跡があり、そのエネルギーは常に自己愛の欠乏感から来ていたと言ってよい。家族を始めとする人間関係から温かいエネルギーを得られない者が、その欠乏感を埋めるために必死で何かに打ち込み、世の中をあっと言わせるため、自分を認めてもらうために大事を成し遂げる。偉人の幼少期の養育環境が往々にして冷たく心理的に不幸なものであるのは、それこそが彼らのエネルギー源だったからである。これは感情を抑圧された子供が無意識にその不満、心理的欠乏感を埋めようと死に物狂いで勉強して一流大学に入学する精神力動と同じである。我々が今日享受している有り難い現実の多くは、自己愛欠乏を補おうとする不健全な心のエネルギーによって生み出されたものである。

現代のように十分に便利となった世の中にあっても、未だその不便さに不満を抱く人がたくさんいる。彼らは現実の中にいながらも彼ら固有の幻想の中を生きている。「世の中がもっとこのようであったらよいのに」というのが彼らの幻想である。「手を動かさずに電気がつけられたらいいのに」「車が自動で車庫入れされたらいいのに」「折れた骨がすぐに治ればいいのに」。その幻想が実現可能なものだという思い込みの強い者ほど、現実に対する不満は大きい。その不満の大きさが、そうした幻想を現実化しようとするエネルギーを生む。そうした幻想をなんとか現実にしようと動く中で、それが周囲との摩擦を生む場合もあれば、社会を変える画期的発明につながる場合もある。「俺はこんなところで燻っている人間ではない」という幻想に取り憑かれ、組織のトップにのし上がろうと息巻く企業戦士は社会を変えるよりも周囲との摩擦を生じ、「難病の友人をなんとか助けてあげたい」と学問に打ち込む研究者は苦しむ人を救う画期的発明に辿り着くかもしれない。どちらもその人固有の幻想を現実化しようとした結果という意味では同じである。現代の加速度的な便利さの向上は、大小いくつもの画期的発明が絶えず起こる世の中になったことの結果である。それは幻想の現実化にエネルギーを投入する動機を持つ自己愛不全者が加速度的に増えている現実を反映したものと見て間違いない。

幻想を出発点とする者には、それと相容れないあらゆる現実が不満に見える。逆に現実を出発点とする者は、そこに新たにもたらされる現実化された幻想に対し感謝を覚える。昔を知っている者ほど今の世の中の便利さを実感できるのは、彼らの現実のラインが現代の若者よりもはるかに現実側、あるいはそれよりもさらに昔の現実側に引かれているからである。我々は誰もが心の中に固有の「現実のライン」を引いて世の中を見ている。親についての現実のライン、友人についての現実のライン、子供についての現実のライン。職場環境についての現実のライン、上司についての現実のライン、部下についての現実のライン、住んでいる家についての現実のライン、パソコンの性能についての現実のライン。それが「真の現実」とどの程度離れているのかによって、対象に対し抱く感情が異なってくる。ナルシシズム傾向の強い人ほど、対象について引かれたラインの位置は幻想の側に寄っている。そして彼らは自分が引いたラインが現実と大幅にズレていたとしても、それを現実側に引き直そうとしない。あくまで自分の引いた線の位置が「現実」であると無根拠に信じ続ける。それが彼らの特徴である「自己の価値観の固定化とそれへの執着」である。そして彼らの「現実」とは乖離する対象にいつまでも不満を抱き続ける。一番問題なのは、彼らは「自分自身についての現実のライン」をも引き間違えていることである。彼らの自己像は極端に幻想の側に寄っている。そしてそのような幻想的自己こそが自分の本当の姿なのだと信じ込んでいる。その幻想的自己への執着が、彼らの時に異常なまでに大きな向上心の源になる一方、彼らの常態的な自己不全感の源にもなっている。自己不全感とは「自分という対象」についての不満である。彼らは自分の誇大な自己像にあたかも自分が近接、一致しているように振る舞うが、心の底では自分が現実には自分の思い描く像からはほど遠い存在であることを知っている。自分はこうあるはずなのに、そうでない自分が事あるごとにチラチラ見えてしまう。それを認めるのが不安で嫌だから、彼らは虚勢を張る。彼らは現実の自分を受容できない。現実の自分では居場所を与えられないと彼らは遠い昔に感じさせられてしまっている。常に自分を想像上の自分の位置まで引き揚げなくてはいけないと無意識に感じてしまう彼らの精神状態は、人生を何となく焦燥感に満ちた、生きづらいものにする。幸せに生きるためには、我々は自分自身を含む外部世界について、特に自分自身については現実のラインを幻想側に寄せずに「真の現実」の近くに引かなくてはならない。我々が何かに不満を抱くときは、不満の対象について引いている「現実のライン」の位置が実際の現実からはズレていると心得るべきである。

技術革新により現実のラインがそれまで「幻想」とされてきた側に引き直されることで、新たな現実が作り出される。こうした社会の「進歩」は、人々の中に「幻想は現実化できる」という認識を植え付ける。それはまた、現在まだ十分現実化していない幻想を現実の如く扱っても構わないという意識を人々に植え付けることでもある。私に言わせればこれが不幸の始まりである。幻想と現実のギャップが世の中の不満や怒りの唯一の発生源である。もし一切の幻想が現実化しないような世の中なら、人々の現実のラインは常に実際の現実に一致して引かれることとなり、幻想と現実とのギャップから生じる不満は生じない。そこではすべての人が現実を受容し、現実に立脚した地に足のついた人生を送ることができる。現代では、科学技術の進歩によって自分自身を含む外部世界についての幻想の現実化を補助するようなツールが繁茂している。便利な社会を促進する社会変革について言えば、学問へのアクセスである。社会変革につながる潜在力を持った学問領域は多様化し、変革の主導者になる機会は現代では多くの人に開かれている。一方でこうした社会の「進歩」とは無関係なところでも幻想の現実化による不健全な自己愛満足は盛んである。その代表が「なりたい自分」という幻想の現実化である。自分自身の身体を幻想通りに改変するような美容形成外科手術、脱毛、服飾といった多彩な手段へのアクセスが、消費主義を背景に無限に広がっている。そしてSNSが、そうして現実化した幻想的自己を個人が披露し不特定他者の是認を受けるための個人用舞台として浸透、機能している。社会変革も、自己変革も、どちらも外部世界に対する操作欲求の満足という意味では同じものである。

この傾向はもはや収まらない。人間関係を基調とした素直な感情表出という基本的自己愛の毀損は現代では常態化し、それを温かい人間関係の復古という健全な形で回復することは忘れ去られ、自己愛の毀損を操作欲求の満足という不健全な形で補う手段ばかりが次々に生み出されている。その不健全な手段も、高度成長期には往々にして個々の操作欲求の発露が「便利さ」という形で社会全体に還元されていたのが、現代では多くがただ個人の自己幻想への執着を叶えることに終止しているように見える。これは、日本全体として幻想を追求する「集団ナルシシズムの時代」が現代では「個人のナルシシズムの時代」へと変化しつつあるということかもしれない。