純粋な現実だけに立脚して生きることは難しい。現実を否認し、改変しようとすることが人の行動エネルギーの源となることは少なくない。そしてその幻想追求によりもたらされた行動が、新しい現実を作り出すことになる。ナルシシストによりもたらされる面倒な状況もまた、現実なのである。たとえ幻想追求を悪と考えるとしても、そのようにして作り出された現実をも悪と否定してしまっては、それは同じように現実否認であり、新たなナルシシズムということになる。幻想追求を悪とするのであれば、それは他者に対してではなく、当人の行動の範囲においてのみ実践されるべきであって、他者が幻想追求的に行動することを否定したり、他者の行動を操作介入して矯正することを正当化するものではない。それでは自分の物差しで他者の行動を測ることになる。誰かの幻想追求を「嫌って」もよいが、それを「否定」したくなったり「不満」に思ったりするのは全く異なる感情である。他人のそうしたナルシシスティックな行動というのは、あくまで自分の行動を振り返るための材料である。
我々は実際には、人々の幻想の修飾を受けた現実の中を生きているという認識が必要である。人間社会における現実というのは、そもそもが人々の幻想を内包したものなのである。その現実の中で、少なくとも自分だけは幻想追求的な生き方を控え、プロセスの洗練による漸進的な自己改善と基本的自己愛の充足に重きを置いた生き方を心がけることが、私の考える正しい人生の姿勢である。
自分が現実に立脚して行動しているのか、幻想追求的に行動しているのかを見極めるには直感ではなく意識の力を要する。「自分の心の声を聴く」というのはそう簡単ではない。人が何か行動を起こしたくなっているとき、心について言えば常に需要が存在すると言って良い。何となく出かけていきたい。何となく人に話しかけたい。何となくお菓子が食べたい。趣味を見つけなくてはならないと感じる。トレーニングにのめり込んでしまう。組織改革をしなくてはならない、後輩を指導しなくてはならないと感じる。しかしそれは自己愛の欠乏感から生まれるものであるかもしれないし、そうであることの方が多い。そのような不健全な欲求は、需要の源として自分の身体をも含む「外部の他者」「外部世界」の存在を必要としない。お腹が空いていないのに食べたくなる、人から話しかけられていないのに話しかけたくなる、誰にも困っていると打ち明けられていないのに悪事を正そうと出ていく、といった具合だ。自分の行動の明確な目的としての空腹などの身体的必要性、話し相手として自分を必要としてくれる友人、自分の持つ技芸を求める聴衆、自分にしかできないことを頼んできた依頼主、そうした「他者」からの明確な需要が存在しないとしても、心の無意識の需要、心の要請というのは発生してしまう。
自分があることをしたくなったとき、自分はいま現実の需要なくただ心の要請に従おうとしているのか、現実の需要からそうしているのかを意識すると、自分がナルシシズムに引き寄せられているのか、リアリズムに立脚しているのかがわかる。注意しなくてはならないのは、需要を考える時にとかく人は「正義の仮面」を被せがちだということである。「あの人は私と話したがっているに違いないんだ」「皆は私の話を楽しみにしている」「この組織にはこういう仕組みの導入が絶対に必要なのだ」。第三者的に見ればそんなことはないのに、当人はそう思い込んでいる。そして正義の仮面を被せることで、自分の行動の動機が実際には自分の心の欠乏感を埋めるために生じたものであることを否定し、あたかも外部からの需要で自分が動いていると自らを偽ろうとする。組織改革や後輩指導などはその好例である。実際には現実的に誰も大きく困ってはいないのに、そこにあるべき「理想」を指摘し、そこに現実を一致させることを目的としてこうした幻想追求的行動が行われる。そして多くの人はそこに心のガス抜きとしての攻撃性を添え、その攻撃性をも正義の仮面を被せて正当化する。他者に対して攻撃的に正論を説いている人は間違いなくナルシシズムに冒されていると言って良い。だが当人は自分の心が真の充実感を欠き、自分がナルシシズムによって突き動かされているということには気が付かない。
一方、「他者から必要とされる」というのも、視点を変えてその「他者」の側から眺めれば、全てではないものの必要性がその「他者」の心の要請から生まれているということがあり得ることに気づく。これが上で述べた「幻想の作り出す現実」である。人と人との関わりにおいて、些細なことであれ一方が他方に「こうしてほしい」という欲求を持つことは珍しくない。相手にこのような反応をしてほしい、同意が欲しい、賞賛が欲しい、憐れみが欲しい。そのような欲求が生じている時点で、そこには小さな幻想追求、ナルシシズムが生まれている。そうした欲求は、例えば本当に困っている人が「助けてほしい」と相手に素直に抱く感情とは全く異なる。そのような素直な感情は、相手の行動に対する操作性を含まない。相手に対して一切の操作性を含まない人間関係のあり方ももちろん存在する。それは理想的な、ヒューマニスティックな人間関係であり、そのような関係は素直な感情表現に立脚しており、常に安定し、継続性があり、健全な自己愛供給源となる。家族がそのような存在になってくれる者は真に幸せである。だが我々が生きる上で、実際にはそうした理想的人間関係だけを得ることは家族間であっても難しく、ヒューマニスティックな関係とナルシシスティックな人間関係が混合した関係を個々の相手と結ぶことになる。その割合がナルシシスティックなものに大きく偏っているのか、ヒューマニズム成分を多く含むのか、それが個々の人間関係の、ひいてはその人が持つ人間関係全体の質を決定する。自己愛性パーソナリティ障害というのは、他者ひいては外部世界との関係の結び方にヒューマニズム成分を著しく欠いた状態と表現することができる。彼らの行動は常に幻想追求的な、欠乏感に苛まれる心の要請に基づいている。一方で欠乏感のあまりに大きい彼らは、外部世界からの自然な需要発生を大人しく待つこともできず、自分から相手に対し先攻的、搾取的に絡んでいってしまう。そして彼らは満足の基準が自分の固定した価値観にのみ依存している。相手が自分の思ったとおりに反応しないと彼らは満足しない。だが真の充実感はそうした「心の要請」からくる欲求の解消では得られない。「心の要請」は外部世界への操作欲求を孕んでおり、相手の自由な感情表現を許容しない。お互いの自由な感情表現のやり取り、価値観の押し付けではなく「提示の仕合い」と「そこからの自己価値観の洗練」こそが双方向的なコミュニケーションであり、健全な自己愛供給源たり得る。そうした健全なコミュニケーションの蜜の味を知らぬものが、ただ相手を自分の価値観に従わせ、柔軟性のない自分が快適に過ごせる世界を作り上げようと必死になっている。これが自己愛性パーソナリティ障害者の行動の本質である。それほどに自己愛不全が人間の行動にもたらす影響は大きいものなのである。