他責的な人、自省的な人

現実生活での問題との遭遇、あるいは怒りや不満を感じる場面において、そこに自分の人格涵養のチャンスを見出すものだけが人間的成熟を遂げていけるし、真に幸せな人生を歩むことができる。

ナルシシズムに留まる者は、問題との遭遇において完全に、あるいは部分的に他責的である。それは外的世界への操作性となって表れる。それは自分がこれまでの人生で形成してきた世界観を通して外部を見ることであり、その世界観を外部にも当てはめようとする心の動きである。その際、彼らの殆どは外的世界を操作する根拠として「正義」や彼らの言う「客観的正しさ」を盾にする。そこには自分の世界観が絶対的に正しいという無根拠な前提が存在しているが、個人の持つ世界観は常に現実からはある程度乖離しており、誰であれ改善の余地を残している。本人が周囲と摩擦している、あるいは怒りや不満を感じている時点で、彼の持つ世界観は現実と何らかの乖離を生じている。どんなに現実が不条理にみえても、常に修正されるべきは本人のもつ世界観であると私は考える。ナルシシズムから完全に脱却した者は、日々の生活において周囲との摩擦を生じても、それを自身の持つ世界観の歪みの結果として捉えることができる。彼は現実をありのままに受け入れることを出発点としている。彼が取り組む作業は、そのような摩擦を一切生じない状態を理想とした上で、自身の経験する摩擦を「振り返る材料」として使いながら、自身の歪んだ世界観を少しずつ修正していくというものである。その意味において、彼らの関心は常に自分自身にある。だがこれはナルシシストの自己中心性とは全く異なる。ナルシシストの自己中心性は、自己のイメージを絶対のものとして自分勝手に固定し、それに周囲を同調させようとするものである。リアリストは自己のイメージを持たず、自己を現実のありのままの姿として捉え、その流動性のある自己をより高みへと引き上げようとする。自分が「ケチだ」と批判されたとき、ナルシシストはそれを怒りとともに否認する。リアリストは、ケチだと言われる根拠となった自分の言動を振り返り、その批判が尤もなものであれば自身の考え方を少し改め、そうでないと結論すればその世界観の押し付けを静かに無視する。そこには怒りや不満が介在しない。ナルシシストにおいては、現実と個人的世界観との乖離が外的世界の操作欲求となってその人に活動エネルギーを与える。実際、この世界はそうしたエネルギーによって運営されている面が非常に大きい。それは自身の幻想に現実を一致させるような努力(ナルシシスティックな努力)であり、たとえば組織改革、子どもの躾、自身の知的/身体的能力の向上などの表現型を取る。これらはいずれも達成を一次目的とする成果主義的努力であり、心理的に不健全なものである。達成しなければ満足はなく、達成のためであれば手段は問われない。だが目標達成による満足は、どれだけ瞬間風速が大きくとも刹那的である。第一志望の大学に合格した喜びは非常に大きくても、1週間後にはそのエクスタシーは消失している。ナルシシストはプロセスを軽視し、達成のみからしか満足を得られないため、そこに至る過程では常に理想と現実の乖離に苦しみながら非現実的な努力をし、また目標達成を他者との情緒的交流に優先しながら進めるため、心理的空白を蓄積する。そして後々振り返ったときにとてつもなく空虚な感覚に襲われる。そしてまた、そこから目を背けるために彼らは新たな達成目標を必死に探して新たな挑戦=現実逃避をする。そうして彼らのナルシシズムは深化していく。大学合格の次は良い企業への就職、そして昇進、昇給、結婚、子作り。そのすべてがナルシシストにとっては自らの生き方というプロセスの洗練による副産物ではなく、達成することを一次目的としたイベントに成り下がっている。だがそれでは、人生の後半に必ず訪れる肉体的衰退、疾病罹患、退職、減給といった下行局面を肯定的に捉えることはできない。それらの衰退的イベントに対し、彼らは自己イメージを傷つけられ続ける。一度肥大させた自己イメージを人生後半で修正することは容易ではない。彼らの肥大し切った自己イメージは、今や現実的自己像と大きな乖離を持ち、人生後半では現実的自己像はますます小さくなっていくため、イメージとの乖離は広がるばかりである。心理的に健全な者は、時間とともに洗練させてきた自分の生き方というプロセスへの確信、それがもたらす副産物的なイベントや他者との情緒的交流が次第に増えていくことに人生の後半になるほど多くの喜びを感じられるはずであるのに、成果主義者として生きてきた彼らはそのいずれも持たないため、彼らは不満と怒りだらけの後半生を苦しみに苛まれながら生きることになる。そんな彼らの末路は、自分を世話してくれる周りの人間を自分の思い通りに動かそうとしてあれこれ要求する結果、まるで感謝の心を持たない5歳児的老人として周囲から疎まれるという悲惨なものである。