じっと待つこと、現実の直視

人との関わり方には2種類ある。一つは本当の意味での心の交流、腹を割った話、情緒の交換というものである。この目的のために他者との関わりを求めるのは健全な心の動きである。もう一つが、自分の満たされない自己愛を補うために他者を利用する不健全な関わり方である。そういう人の関わり方には、自分の業績を見せつけようとしたり、知識を披露したり、暗に賞賛を求めたりする態度が滲み出る。相手にとってそれがどんなに有意義であったり教育的であろうとも、そのような関わり方は双方の心にとってはプラスにはならない。そうした関わり方は、相手を操作しようとする意図を秘めている。相手からの賞賛、賛辞、感心を引き出すことも、感謝を求めることも、いずれも相手への操作的行動である。健全な教育とは、聞かれたことに答え、その結果相手が納得したり変化したりすることは相手次第と割り切ったものである。いくら教えても相手が自分の理想通りに変わらないとすれば、それは教育する側の方法や、提示する内容に決定的な誤りがあることの表れでしかない。講義に受講生が集まらないのは、受講生のせいではない。その講義に魅力がないからである。そこで講義への参加を強制したとすれば、教育する側は参加人数という自分の教育の質の評価指標を失う。10人のうち2人しか参加しないとすれば、10人が「自発的」に参加してくるにはどうすればよいのかを考えなくてはならない。10人を強制的に参加させることは、テストでカンニングをすることで100点を取っていい気になっている子供と同じ精神構造である。トラブルに際して、その責任を相手に見出そうとしているうちは当人の心の成熟は得られない。トラブルの中に自分の至らなさを見つけようと努め、常に自省的に己を見ることができる者だけが精神的な成長を遂げられる。

他者を搾取するような不健全な関わり方でしか他者と交流できない者は、まず人に絡んでいくのをやめ、他者から声をかけられるのをじっと待ってみることである。もし自分が人間として成熟していれば、自然と多くの相手が声をかけてくる。上で言う講義の参加人数がその講義の質を表すのと同じである。中には不健全な関わり方をしてくる者もいるだろうが、一方で健全な交流を求める者もいる。心の不健全な人は、じっと待っていてもはじめは誰も自分に声をかけてくれないことに不満やもどかしさを覚えるだろう。話しかけられたとしても、それは仕事上の必要に迫られたものでしかないことがほとんどだと気づく。多くの者は自分が本当の意味で人から必要とされていないというその不安や不満に耐えられないから、そこから目を逸らすために自分から他者に絡んでいく。講義に生徒を強制参加させる。そうやって現実を、自己を否認しながら生きていく。彼らが現実を直視したとき、その痛々しい現実は彼らのナルシシズムをひどく傷つける。彼らは講義に2人しか参加してもらえない惨めな現実を目の当たりにすることに耐えられない。だがそこで現実否認をやめ、それが自分のそれまでの生き方の致命的な誤りの結果なのだと素直に認めるところから彼らの本当の再生が始まる。

じっと待っているとき、どのくらい他者から情緒的に関心を寄せられるかが当人の心の成熟度の指標となる。人の精神的成熟度を知る上では、周りにどのくらい人が自然と集まってくるかを観察することが大いに参考になる。