働き方改革の本質は睡眠時間の保証による基本的自己愛毀損の防止である。医師というナルシシズム(=幻想追求)を前提とした職業において、基本的自己愛である「眠気の解消」「空腹の解消」「素直な感情表出/自分らしくあること」はいずれも多くの人で毀損されているが、このうち最も生命維持に寄与する「眠気の解消」と「素直な感情表出/自分らしくあること」の二者を過剰に傷つけられた者が自死を選んだことにより当局の介入を招いた。だが制度設計によりコントロールが可能なのはこのうち「眠気の解消」だけである。医師の労働時間を制限することの目的は、あくまで睡眠時間の保証である。だが実際には、上の二者のうち十分な睡眠時間が確保できていないことが燃え尽きや自死の主たる原因ではない。睡眠時間の不足はそこでは補助的な役割しか果たしていない。主たる原因は「素直な感情表出/自分らしくあること」の毀損である。仕事で自分らしく振る舞えずに無理を強いられる間、人は自己愛不満を蓄積する。それを解消する手段として十分な睡眠があり、空腹の解消があり、他者との情緒的コミュニケーションがある。仕事からどの程度自己愛不満が蓄積するかは、その者の人格によって異なる。真の親切心や優しさを備えた者は、毎日の医業から健全に自己愛を補給できる。「その人らしく」振る舞って自己愛が健全に補給できるのは、こうした真の親切心や優しさ、私が「積極的他者配慮」「金色の風船」と呼ぶ性質を備えた者だけである。それ以外の者はたとえ自分らしく振る舞ったとしても自己愛を健全には補給はできない。健全な自己愛を補給できない者、そして仕事で自分らしく振る舞えずに自己愛不満を蓄積する者も、さまざまな「評価」「業績」「地位」「報酬」といったものを継続的に得ることで「不健全に」自己愛を補給しながら自己を保つことができる。医者の場合、この不健全な自己愛補給経路が多数用意されていることが破綻を防ぐうえで大きな役割を果たしている。このようにして見ると、上で述べた自死に至るようなケースでの本人の人格構造がうっすらと見えてくる。彼にはまず、医業の中で優しさや親切心による患者とのコミュニケーション、同僚など周囲との情緒的コミュニケーションにより健全に自己愛を補給する能力が欠けている。さらに彼には業績といった仕事に関連した不健全な自己愛満足を蓄積していくための比較的高い論理的能力も備わっていない。そうすると彼にとって仕事の時間とは、そのまま自己愛不満を蓄積していくだけの時間になってしまう。自らの能力不足から仕事以外の時間を十分に持てなかった彼は、仕事外で自己愛を十分に回復することもできず、そして生物的に備わった自己愛不満の健全な解消手段の最後の砦、すなわち睡眠を奪われたことで、彼の自己愛の器は底をつき、彼の心に破綻が生じたのである。
話を戻し、働き方改革施行下で、これまで自分の論理的能力不足を物量で補ってきた研修者がどう振る舞うかということを考える。いま、研修者に求められるアウトカムが10とする。医師の論理的思考能力には別で論じたように大きなばらつきがあり、一を聞いて十を知るような者もいれば、十を聞いてやっと一を知るような者もいる。前者は10のアウトカムを得るために1の時間しか要さず、残り9の時間を使って様々な学術活動に勤しんだり、それを余暇に当てて仕事と関係のない自己愛補給に使うことができる。だが十を聞いて一を知るような者は、10のアウトカムを得るために100の時間を必要とする。これまでであれば、彼らは不足する90の時間を時間外業務という形で確保することでその者に求められる水準をクリアしてきた。人よりカルテを書くのが遅い者は夜まで居残りして書き、手術の腕が上がらない者は練習室で独り研鑽を積んできた。そのようにして10のアウトカムを達成することが周囲からも当然と考えられてきた。10のアウトカムに届かない者は、周囲から尻を叩かれ、罵倒され、それでも届かない者は第一線での居場所を失うことになった。
だが働き方改革により、現代の日本の医療が求める能力水準に届かない人々はそれを補うための90の時間を業務時間として確保することを制限されるようになった。それは表面上は個人に十分な睡眠時間を保証するための措置であったが、実際にはこれまでも生命活動が不可能になるような水準で睡眠不足を強いられてきた研修者などほとんどいなかった。仕事中の自分らしくない振る舞いから慢性的な自己愛不満に苛まれ、そのうえ求められる結果の不足分を取り戻すためにプライベートはおろか睡眠時間までも削らなくては水準を保てなかった研修者はほんの一握りである。そういう外れ値に該当するような者は、10のアウトカムを得るために90どころか、150とか200とかいった時間を必要としていた。そうした者が10を得るためには、純粋な必要業務時間だけでも睡眠時間を圧迫してしまうという事態になる。そうした極少数派の中から、働き方改革の契機となった悲劇的結果が生まれたと私は見る。
働き方改革の下で、十を聞いて一を知る者が10を得ようとするならば「業務の外」で研鑽に励む以外にない。業務の効率化は彼らにとって必要ではあるかもしれないが単独の解決策にはならない。十を聞いて一を知る者が、十を聞いて高々二、三を知るようになったとしても、彼らは10を得るために依然として70、80といった時間を必要とする。注意しなくてはならないのは、彼らの研鑽はもはや業務として扱われなくなったことである。「業務に従事していない」というのは、労働者の権利を守っているという言い訳を当局側に与える体裁であって、医師個人が業務として研鑽を積むのか業務外で研鑽を積むのかに本質的な違いはない。だが業務か業務外かには別の視点からは大きな違いがある。残業時間には、残業代という報酬すなわち自己愛満足が伴っていた。それは仕事をしながら自己愛満足を得られない者にとって僅かではあるがその不満を解消するものであった。だが働き方改革は報酬という不健全な自己愛満足を労働者から奪った。残り90の時間全てに支払われていた報酬は、そのうち20か30にしか払われなくなった。その状況下でも、依然として研修者が10のアウトカムを求められ続けるのであれば、弱者に施す仕事そのものからは自己愛を補給できない者=情緒的能力に欠ける者にとってそれは地獄である。このような状況下で彼らの取る選択肢は、開き直って10を得ることを当然とする現代の医療者たちの価値観を大胆に無視することである。彼らは与えられた時間を対価のない研鑽に当てることはせず、仕事とは無関係な自己愛補給に費すだろう。そしてそれは年月を経て少しずつ新しい価値観として優勢を占めるようになる。そのとき、日本の医療の水準がもはや10ではなく6や7に低下しているのは必然である。これまでナルシシスティックに10の水準にしがみついてきた世代は、果たしてその現実を受け入れることができるだろうか。
ここまでの論をまとめると、次のようになる。まず、真に医療職適性のあるもの、すなわち本当の意味での優しさや親切心=情緒的能力を備えた者は、その論理的能力に関わらず健全に職業人生を全うすることができる。彼らは必ずしも医療水準を大きく引き上げないが、彼らの他愛的性質は地道な努力を生み、時間をかけて自らを必要水準に導く。少なくとも彼らは金銭的対価のない業務外の研鑽に時間を費やしても燃え尽きることがない。それは業務そのものから健全な自己愛補給を受けられるためであり、そもそも彼らは家族をはじめとする豊かな人間関係から十分な自己愛補給を受けているからである。彼らが債務不履行に陥ることはない。
次に、情緒的能力に欠ける者でも、論理的能力の高い者は、10を得るために10の時間を必要としない。彼らは残りの時間で不健全に自己愛を補給できる。それは仕事に関連した生産的活動かもしれないし、仕事外での自己愛行動かもしれない。いずれにせよ彼らはそうした「余暇」を思い思いに過ごして自己愛を補給し帳尻を合わせる。幸い、医師という職業にはこうした不健全な自己愛供給源が多数用意されている。論文、書籍執筆活動、部下や他職種の「操作的教育」、組織の「支配的運営」、多額の報酬、組織での役職付与、専門資格の収集。これらはいずれも社会的に是認/奨励されるマスターベーションの方法として機能する。社会的是認を受ける方法であってもそうでなくても心理的観点からは何も差がない。仕事で次々に書籍を出版することも、組織の長となり支配することも、プライベートで独り趣味に没頭することも、美食に酔い痴れることも、鏡の中に幻想を見て化粧に勤しむことも、文字通り自室でマスターベーションに興じることも、いずれも不健全な自己愛満足である。私を含めた現代の医師の大多数は、この部類に属する。
最後に、情緒的能力に欠け、さらに10を得るために10以上の時間を要する者である。彼らこそは、働き方改革の最大の被害者である。彼らは10を得るための公的な手段を改革により奪われた。今までは少なくとも金銭的対価により自己愛を補給しながらその10にしがみつく事ができていた者も、新制度の下では対価を得られなくなった。金銭的報酬以外に彼らを幻想に繋ぎ留める何かが提供されない限り、彼らが10を得ることにしがみつき続けることは難しいだろう。この状況で10を目指すことはナルシシズム以外の何物でもない。それは幻想追求であり、現実の否定であり、継続に莫大なエネルギーを必要とするものである。彼らは心理的に健全な道である現実の受容を始めるだろう。それは10ではなく6や7を適切な水準として自らに目標設定することである。そしてそれはやがて日本の医療水準そのものとなる。