自己愛不全者の行動に共通する構造に「求められていないのに一方的に提供する」というものがある。彼らは「何かをやらないと居ても立ってもいられない」という心理状態で日々行動している。それは例えば仕事上の業績追求行動、個人ブログやSNS等での情報発信につながる心理である(このブログもそうした心理の結果であることを否定しない)。それらはよく観察すると、実は誰からも求められたわけではないことに気がつく。
すべてではないにしろ、医療における「開業」というのはこの「需要のないところに供給する」ことの究極型ではないかと思われる。人との関わりにおいても、彼らは一方的に他者に絡んでいく。彼らは、じっとしていたら彼に話しかける者は誰もいないことを心の底で怖れ、その現実を直視しないために彼らは自分を「気持ちよく」してくれそうな人を狡猾に選び取って絡んでいく。彼らは自分という「需要」のないところに自分を「供給」しているのである。本当は人との双方向的なコミュニケーションで健全に自己愛を補給するのが正しい道であるのだが、彼らは双方向的なコミュニケーションの取り方がわからないからそれができない。
需要のないところに何かを提供する場合、提供者はたいてい、需要が存在しているという理屈をでっち上げて自分の行動に正義の仮面をかぶせる。「子どものため」と言いながら暴力で子供を躾け、自分の操作欲求/支配欲求を満たそうとする親と同じ構造である。彼らは「現状院内で行われている医療の質の悪さ」を説き、「世の人々の認識不足」を説き、「研修者の不届き」を説き、「地域の医療アクセスの不足」を説く。だがほとんどの場合、それらは厳然たる需要としては存在していない。供給により潜在的な需要の充足がなされることは否定しないが、それは誇張され、自己愛不全者の行動を正当化する道具として利用される。こうした様々な供給行動が自己愛不全に根ざしたものであっても、そのアウトプットが客観的に有用性の高いものであると周囲からの歓迎が目立ってしまい、この構造が見えにくくなる。だがその一見他愛的な行動が、そもそもどのような動機で始まったかに目を向け、それが供給先行であるか需要先行であるかに注目することで真実が見えてくる。真に他愛的な行動は、他者に頼まれて、どちらかと言えば「嫌々ながら」本人が重い腰を上げて動くような場合に見られる。だからそれは必ずしもスピード感には溢れないし、アウトプットの質も需要を満たしこそすれ、不自然な完璧性は示さない。勉強会の参加者が予想に反して少ないなど、結果として需要が満たされないような状況が発生したとしても、提供者はそのことを不満に思ったりはせず、「需要がうまく満たされない原因が何か自分の側にあるのではないか」という自省的な考え方をする。需要がうまく満たされてない状況が発生したときに当人がどのような反応を見せるかもまた、その供給行動の健全性を評価する上で有用な観察項目である。
現実には、「教育」というものはかなりの部分がこうした不健全な「供給ファースト」の行動によって行われている。教育を受ける側は、その内容がたまたま有用なものであればそこから吸収すれば良いし、不健全な自己愛行動としての教育行動をすべて否定してしまったら人々の成長も鈍化するだろう。だが我々は、こうした「供給ファースト」の行動というのはしばしばナルシシズムを内包し、他者を操作、整形しようというコントロール欲求を孕んでいることに注意しなくてはならない。そうしたナルシシストは時に安々と他者の不可侵領域に土足で踏み込んできて、こちらの基本的自己愛までをも毀損してくる。「教育的指導」と称して睡眠時間や空腹を無視して残業させたり、こちらが意思決定権を持つことに関しても行動を操作してこようとする。彼らはこうした自分の心理構造には全く無自覚であるから、彼らの「教育」がそうした動きに発展するようであれば供給される側が断固として自分の領域を守らなくてはならない。彼らにNoを突きつけることは時に彼らの不満や怒りを買うことにもつながるが、その怒りは彼らのナルシシズム=幻想が傷つけられたことによるものであり、問題は彼らの側にある。怒りとは、基本的自己愛を傷つけられた場合にのみ正当化されるものであり、彼らナルシシストに巻き込まれて基本的自己愛を傷つけられた者の方にこそ声を上げる正当な権利があるのである。