ガス抜きの方法、二面性、自己愛憤怒

基本的自己愛の毀損は当人の中に無意識に不満を蓄積する。「睡眠不足」「空腹」「自分らしくあることの禁止」、これらいずれもが蓄積により何らかの形でのガス抜きを必要とする。前二者は睡眠、食事という需要に一致した解消方法を持つし、その方法で満たされないと生命の危機に直結する。問題となるのは3番目の自分らしさ、感情の表出である。

ある場面、例えば仕事では自分らしさを抑圧して会社の立場に見合った振る舞いを強いられる人は多い。それでも、その人が私生活での付き合いや家庭で自分らしく振る舞える機会を十分に得ていれば、彼はガス抜きを必要としない。彼は「自分らしくいられない」という不満を「自分らしくいる」という需要に一致した方法で解消している。ところが、公私に渡って自分らしさを失っている人がかなりの数存在している。イメージに自分を一致させることで自分を繋ぎ止めてきた人々、すなわちナルシシストである。彼らは幼少期から家庭内で親のイメージに沿った自分を生きてきたため、自分の心の声を聴くことが極端に苦手である。自分らしくあるとはどういうことなのか分からない。彼は与えられた役割に即した自分を演じることには長けており、会社内でも求められる役割を十分に果たす。だがいくら社会人として機能していても、それはその人らしく生きていることとは全く異なる。彼は大人になってからの私生活でも自分をイメージで縛り、本当の自分ではない自分を演じ続ける。彼は家庭でも、職場でも、常に基本的自己愛を傷つけられ続けて不満を蓄積している。だから彼は常にガス抜きを必要としている。彼は自分が「優位な」立場に置かれたときに、ここぞとばかりに相手を攻撃的、高圧的に責め立てる。この時にイメージに沿った普段の姿との二面性が生じる。同じ状況でも、自己愛が健全に満たされている人はそのような態度で相手に接触しない。心の健康な人は常にフラットである。ゆえに二面性は不満の蓄積のひとつの表現型なのである。

ガス抜きの方法はその人によって異なる。自分らしさを知っているものの、社会生活のため場面限定的に自分らしさを抑圧されている人は、まずは自分らしく振る舞うことで自己愛を満たそうとする。それは健全な双方向的コミュニケーションを通して行われる。彼らはそうした場を求めて動く。友人とカフェで双方向的な(素直な感情を気兼ねなくぶつけ合うような)コミュニケーションを取れるような人はこのタイプであろう。現代においてはほとんどの人が職場などの集団生活では完全には自分らしさを出すことができない。誰しもがイメージに縛られながら動いている。一方で自分らしさを完全に失っている人というのは、不満を補おうと私生活でも対人コミュニケーションを求めて動くものの、そのコミュニケーションはどうしても一方向的で不健全なものになる。それはマスターベーションの様相を呈する。それは自分の誇大性、優位性、有能性を見せつける意図をはらんだものとなる。対人的な解消手段を持たない人は、現実逃避的な手段(時間つぶしと呼ばれるような方法)、あるいは自己の価値を高めることを意図して行われる手段(技芸の追求、知識の探求、金銭の獲得)で自分を満たそうとする。それとともに用いられる手段で最も手軽で魅力的なものがナルシシズムの傷つきを修復しようとする自己愛憤怒によるガス抜きである。それは歪んだ世界観、すなわちナルシシズムに冒された人に特有の手段と言える。歪みが大きいほど、つまり現実が見えていない範囲が広いほど、自己愛憤怒が発露する頻度は高くなり、大多数が理解不能な場面でも発露する。「何であんなことで怒るのだろう?」という感想を人々にもたらす。だがその理由は簡単である。それは大多数の人々が「当然受け入れている」現実を、その人は受け入れられていない、その人は現実が見えていないというだけである。それは「出来の悪い部下」「反応の遅いコンピューター」「時間通り現れない友人」「点かない電気」「突然の大雨」「カフェの臨時休業」といった、自分の「理想的世界」とは異なる現実をありのままに受け入れられるかどうかの違いなのである。それはまさに「こだわりを手放すこと」であり、母親との一体感に始まる「幼児的ナルシシズム」からの脱却と言ってもよい。「キレやすい」人というのは、吸ったらオッパイが出る、泣いたらオムツを替えてもらえることが当たり前の乳児のごとく、「私との約束は皆時間を守ってくれる」「私の点ける電気は切れることがない」「私の行きたい店は私が行くときには必ず開いている」と考えているような人なのであり、それは精神的未成熟以外の何物でもない。