理性的行動と感情的行動

感情的な人間は感情による納得行動を理性による納得行動で上書きできない。自己愛に駆られた無意識の行動は、その健全/不健全を問わず感情的な納得行動に類する。理性による納得行動を習慣化することで、よい結果が生まれることが体感され、同じ行動であっても理性的行動が感情的行動に変化する。我々は生まれつき、理性よりも感情に行動を規定される。それがすべての動物の本性である。理性はしばしば、自己愛不全のある者がある種の代償行動(理論的思考を要するような学問の追究)に没頭する過程で発達する。そういう者は、自己愛による不健全な感情的納得行動から脱却する術を手に入れたという点では幸運である。だが優しさや親切心の体験を通して健全な感情的納得行動を人生早期に身に付けることができた者は、理性をさほど発達させなくとも幸福な人生を歩むことができる。彼らは自分の健全な感情的納得行動を理性で上書きする必要がない。最も不幸なのは、人生の早期に優しさや親切心に触れることができず、さらにそこから生じた自己愛不全を理性的行動以外の手段ばかりで補償してきた者たちである。自分を美しく見せることや、「特別」に見せることへの没頭に理論的思考は必須ではない。この視点では、美容整形により自分をいつまでも若く見せることに執心する者も、何冊も学術書を出版して名声を得る者も本質は同じである。社会的評価や地位は、どのような自己愛不全解決策を選んだかの偶然の産物でしかない。

理性による納得で感情による納得を上書きするためには2つの障壁がある。まず、理性による納得を得る段階である。医療で言えば、ある医療行為を行う根拠に筋が通っていることを理解することである。これには今までに述べた「理論的思考能力」が一定以上発達している必要がある。理屈を十分に理解できなければ、それを行動に移す動機として作用しない。大抵の医師は、この水準の理論的思考能力は有している。次の障壁は、理性による納得行動をそれまでの自分の感情的な納得行動に抗して実行し続ける部分である。理性による納得の動機付けは、感情による納得の動機付けに比してかなり弱い。たとえ理性で納得した新しい行動様式がそれまでのものより優れていると頭では理解していても、である。理性による納得を継続し、習慣化するこの段階が一連の過程での最大の障壁になると思われる。習慣化していく過程の初期においては、人はより魅惑的である感情的納得行動をそれよりも弱い魅力しか持たない理性的納得行動で一旦置き換えなくてはならない。それは動物的に無理のある、不自然な行動である。しかしこのステップを経ないと、不健全な感情的納得に支配された者がそこから脱却して健全な精神を手にすることはできない。トイレで毎回石鹸で何回も手を洗っていた者が、水で手を洗うだけで済ませられるようになるには、水だけで洗うという理論的には正しくてもなんとなく嫌な、感情的に納得できない行動をしばらくは実行し続けなくてはならない。後輩を揖って自分の有能さを誇示して自己愛を補給していた者がそれを止めようと思っても、すぐに支配的欲求、搾取的欲求が自分の行動を歪めようとする。その力に抗って新しい交流を続ける中で、他者との関係が良い方向に変化していくのを体感して初めて、新しい行動様式が自分の中に内面化されていく。スライディングスケールが良くないと分かっていても、患者がDKAを発症したり死亡したりすることは稀であるから、看護師が慣れていないといったことを言い訳にしたり調節が面倒くさいという誘惑に負けて、頭では正しいと理解している強化インスリン療法を実施することから逃げる。しかも医療行為は、かなり大きな数で見ないと有害事象、合併症の頻度や患者予後の差が明らかとならないから、臨床医療に従事するだけではそれを実感することは不可能である。これは新しい行動様式を継続することへの強い抵抗力として働く。それに打ち勝つには、医師として統計的医療、EBMといったものの重要性を理解することが不可欠である。このレベルの理論的思考能力は、第一段階で求められるものよりも高水準であり、医師であっても到達していない者が少なくない。臨床でしばしば遭遇する「話の通じない医者」「好き嫌いで診療する医者」というのは、この水準をクリアしていない者であることを意味する。

これらは以前に述べた行動についての「規範意識的行動様式」から「人格的行動様式」への変遷と同じように見ることができる。前者は内面化されていない行動様式(ここで言う「理性的行動」)、後者は内面化された「その人らしい」行動様式(「感情的行動」)である。人は規範意識的行動様式からは自己愛を補給できない。上で述べた行動変容のプロセスの初期においては、元々の感情的行動様式の放棄から生じる自己愛の供給不全に我々は耐えなくてはならない。これは心理的にとてつもなく苦しいことである。人間は自己愛を一定量に保つために生きているから、それまで供給されていたものが急に与えられなくなると何としても代償しようとする。過食傾向のあるものはそれに拍車がかかり、他者を虐めていたものは一層苛烈な虐めに走るかもしれない。しかしその期間の自己愛をうまく飼い慣らし、他者への害ができるだけ少ない方法で自己愛を補給しながら乗り切り、新しい行動様式を繰り返すことで、理性的納得は感情的納得へと変化する。そうなって初めてもとの感情的納得行動が新しい感情的納得行動で上書きされ、自己愛供給路としても機能する「人格的行動様式」となる。