「こだわり」と心の成熟

こだわりを生じずに心を成熟させる人に迷惑をかけていることに気が付かず、自分の感じるように行動する人がいる。こういう人は心は健全だが、社会生活を営む上で身につけるべき道徳を身につけていない。道徳とは、「親切にする」「誠実である」「他者を思いやる」といった古典的道徳教義に類する信条である。ほとんどの人は、不足する自己愛を補うために、あるいは親など周囲のナルシシズムに巻き込まれることで古典的道徳以外の不健全な信条も身につけながら心を発達させる。後者は「こだわり」と呼ばれ、しばしば自己中心性を孕み、人間関係を犠牲にする。「1番になる」「他に優る」というこだわりはその典型である。社会生活を営む中で、いかに「こだわり」の発達を最小限にしながら健全な信条を内面化できるかが、人間の成熟にとっての鍵となる。理想は古典的道徳教義のみを内面化しながら成長していくことだが、そのためには基本的自己愛、特にナルシシズムに冒されていない養育者を基本とする豊かな人間関係に恵まれることがどうしても必要である。だがこれは当人の生育環境に大きく依存したもので本人にはコントロールできない。彼らはやがて、「競争」という自己愛満足方法が社会的に是認され、養育者からも評価されるものであることを集団生活の中で発見する。それは競争を奨励する家庭環境においてであるかもしれないし、学校という集団組織においてかもしれない。幼少期に情緒的交流に恵まれなかった者は、親から古典的道徳教義を身につけられない。集団生活において、道徳をある程度身につけられたとしても、彼らは自己愛の不足から同時に「こだわり」も身につけざるを得ない。そういう者にとって、人間的成熟とは「こだわり」から脱却していくことであり、それは豊かな人間関係から情緒的交流により自己愛補給を受ける術を手に入れることである。生きるためにはそれぞれの者に固有の一定の自己愛量が必要であると考えるなら、こだわりにまみれた者がこだわりを急に捨て去ることはできない。こだわりの放棄はその人に自己愛の急速な不足を生む。放棄したこだわりから得ていた自己愛補給を受けずに済むには、他の自己愛でそれを補う必要がある。それは本来であれば基本的自己愛、中でも他者との情緒的交流による健全な自己愛満足以外にはあり得ない。だが実際には多くの者がこのことに気付かない。彼らは人生の後半で初めて経験する大きな挫折によりそれまでの主要な自己愛供給路が絶たれた時、他の不健全な供給路を求めてそれを補おうとする。それはアルコールであり、過食であり、業績であり、SNS上での承認であり、趣味であり、他者に対する搾取的行動や優越性の確保を目的とした行為である。これらは全て、自分が本当に欲しているものを直視できない、あるいは欲しているものが得られないために取る逃避的行動である。彼らが真に再生するには、まず自分が欲しているのが情緒的交流であることを直視する必要がある。そしてそれが得られていないことを認める。その上で、まずは今ある人間関係を大事にする。いままで自分が他者と不健全にしか関われていなかったとしても、自分に関わってくれる人との関係を大事にする。今まで不健全な人間関係しか持てなかった人が直ちに他者と情緒的交流を持つことは難しい。だがそれを他者の助けを借りながら少しずつ変え、対人、非対人を含めた不健全な自己愛供給路に依存し過ぎないよう注意しながら少しずつそこから脱却していく。自己愛供給の健全さ/不健全さが認識できるようになれば、自分が不健全な自己愛供給にどれだけ依存しているかがよく分かるようになる。自分が何かに「ハマり」過ぎていればそれと気づくことができる。自分が何からどの程度自己愛供給を受けているかを客観視し、それを自身の心の成熟のバロメーターとするのである。