点と線、ライフイベント

就職、結婚、出産といったライフイベントはそれまでの生き方の結果であると同時に、それを見直す手掛かりを与えてくれるものである。そうしたイベントを目的化してしまう人生は、そこへ向かう自身の姿勢の一貫性を失わせ、人格の涵養が妨げられる。経験をすることが目的ではなく、自分に素直に行動した結果、特定の経験を積み重ねることになるのである。自分の人格のベクトル上にある石に飛び移りながら生きるのが正しいのであり、目の前に現れた「なんとなく良さそうに見える石」に無差別に飛び移るのとは違う。「点と点を繋いだら1本の線になっていた」という生き方は正しいが、それは自分の中に人格というベクトルが形成されている場合の話である。そうでない者はただ興味の赴くままに様々なことに挑戦するが、それらに一貫性がないためそれは何ら充実感をもたらさない。彼らの飛び移る石は1本の線上にはない。ベクトルが定まっている人は、飛び移る石の数が少なくてもそこに大きな充実を感じることができる。であるから、他人と経験の有無を比較して優劣を感じることは無意味である。経験の差は生きる姿勢、すなわち人格によって自ずから生まれるものであり、経験が異なることこそが人が固有の人格を有することの証なのである。たまたまある人の人格のベクトル上には10個の石があり、別の人のベクトル上には5個しかなかっただけなのだ。人生を充実させるものは石の数ではない。石の数を競ったり、その中の特定の石を必須の通過点のように考えて押し付けることは、その人に固有の人格を放棄させることであり、それは結果主義、ナルシシズムを植え付ける危険な発想である。ただし人格が整った者のほうが、人として自然なライフイベントを経験する可能性は高くなる。親友を持つこと、結婚すること、子を持つことはこうしたイベントに属するだろう。そうしたイベントを経験できないことは、ある意味では失敗と言えるが、それは同時にその人の人格の反映であり、その人が自身の生き方を省み、人格を磨くためのチャンスとなる。一方で、現代ではこうした「自然な」ライフイベントである結婚や出産が目的化されて久しい。そこでは、これらのイベントはベクトル上に当然現れた石としてではなく、「飛び移らなければならない石」として捉えられる。人格の整っていない者がそうしたイベントを経験しても、充実感を得られないのはこのためである。「出会いがない」のではなく、「出会わない生き方をしている」のである。結婚や出産は、必然的に他者を巻き込む。そこで巻き込まれた者は、不健全な自己愛満足の対象として扱われ、健全な人間関係を構築する機会を奪われ、その能力を破壊されてしまう。