学問の意義

「問題が起きてから対処する」という生き方が本来は健全な人生に最も必要な態度ではないだろうか。計算ができなくて不便な思いをするから算数の勉強をする。文章が読めなくて困るから漢字の勉強をする。飢えて死んでしまうから仕事ができるように学問や社会性を身につける。寝る時間や人との交流の時間が確保できないから仕事を効率化する。このように考えると、現代はいろいろな問題が起こる前に先回りして対処させているようだ。身につけておかないと、後で社会生活上必ず問題を生じるようなものは義務教育で先回りして身に付けさせる必要があるが、その中には不要なものもたくさん含まれている。簡単な算数や漢字など、現実社会において身に付けておかないと実生活に支障をきたすものから、芸術や科学など、自発的意欲に任せるべきものまでが義務教育内容には雑多に含まれている。テストや体育における競争的側面は、却って不健全な自己愛満足供給路を提供することになる。

勉強が将来の選択肢を広げる、という理屈が言われるが、得られた選択肢への没頭により本来経験できた情緒的交流が犠牲になるのなら、それは間違っている。現代では誰もが程度の差こそあれ何らかの不健全な自己愛満足供給路を必要としている。それを得るために数多くの選択肢に触れておくことは必要悪である。だが義務教育により社会生活が円滑化するような最低限の学問を身につける中で、常に情緒的交流を優先させていくことで、たとえ将来の選択肢が狭くなったとしてもそれに耐える人格を涵養することができる。情緒の交流を十分に蓄積できなかった人が、それと交換に広い社会的選択肢を与えられたとしても、その人はその広い選択肢や個々の選択肢の追究に心から満足することができない。彼はは自分の能力を活かして様々な自己愛満足の方法にあれこれ手を出すだろうが、本質的な部分では決して満たされない。彼は本質的に満たされるための手段である「人と健全に関わる能力」を持っていない。

人との情緒的交流を最優先にして生きてきた人は、大人になってもその時間を最優先に確保しようとする。彼らは仕事においてもできるだけ人と健全に関わる方法を見出そうとする。それが叶わないとすれば、健全な者は飢えないために最低限の稼ぎを、できるだけ短時間で得られるような仕事を探すし、そういう仕事に必要な最低限の学を身に着けようとする。これが健全な人生における学問の本来の位置づけではないだろうか。かつての経済的困窮が、経済力を得るための学問の位置付けを不当に引き上げ、健全な自己愛満足である情緒的交流よりも不健全な自己愛満足が広く重要視されるようになった。だが経済的進歩が達成された後、人々は結果主義者特有の空虚感を抱くようになった。学歴や社会的地位がかつてほどには羨望の対象とならなくなったが、今度は経済的、技術的進歩を背景とした様々な体験的価値(消費活動)や承認による満足(SNS)が取って代わった。空虚感の本質は健全な自己愛満足である情緒的交流の不足にあるのだが、ほとんどの人々はそこから目を背けたままである。情緒的交流が不足している人がどれだけコスパの良い仕事に就いても、その人は与えられた余剰時間を不健全な方法でしか満たすことができない。会社で地位を得ることも、書籍を出版することも、多額の金銭を得ることも、いずれの不健全な自己愛満足も情緒的交流の伴わないものは刹那的である。それは人との温かい交流のように永く続く満足感をもたらさない。だから彼らは穴の空いた風船を膨らませようとして、常に次の自己愛満足に手を出さなくてはならない。