自己愛満足の補償行動

人が生きていく上で必要とする自己愛満足には最低限の量が存在するという仮説を以前に唱えた。それを最も健全に満たすには、心で繋がった人間関係が必要となる。そのような人間関係は、自然と優しさなどの健全な生きる姿勢を生み出すことになり、不健全な自己愛満足はそうした人にとっては不要なものとなる。逆に、何かに没頭している人、耽溺している人は、その背景に健全な自己愛満足の不足があるとみて間違いないだろう。そうした没頭対象は、スポーツや仕事、その他知的活動のように社会的には比較的健全と評されるものから、ギャンブルやポルノ、薬物など不健全とされるものまで多岐にわたる。だが心理的な面から見れば、それらはすべからく不健全と言える。社会的に健全な没頭対象は、しばしば成果達成を目的としており、本人にある程度の能力や努力、継続力を要求する。一方不健全なものには、そうした本人の積極性はさほど必要なく、経済力が唯一の必要物であることが多い。ナルシシズムという観点からは、前者は理想的幻想への近接体験、後者は現実逃避体験であり、どちらも陶酔体験的=現実否認的行動という共通性を有している。不健全だからという理由でそういった人から没頭対象を取り上げてしまうことには効果がないのは明らかである。彼らは自分に必要な自己愛総量に届いていないからその方法を選択しているに過ぎない。彼らはその方法を禁止されても、別の方法を見つけるだけだ。自己愛不足を補うために必死に勉強して成績を上げようとする子供に勉強を禁止することと、ギャンブルやパチンコにのめり込んだり酒に溺れる人からそれらを取り上げることには、本質的には何ら差がない。これは恐ろしいことである。人が何かに没頭することの善悪は、それがいかに心理的に不健全であっても「それが社会的に許容できるか否か」でしか判断されない。たとえ社会的に善とされる行動にナルシシスティックに没頭し、その人が多大な業績を上げて社会に貢献したとしても、それはその人にとって真に健全な自己愛満足を与えない。彼は瞬間的には満たされても、常に何らかの「業績」で自己愛を補給し続けなくてはならない。仕事への没頭、スポーツへの没頭、音楽活動への没頭、研究への没頭、その他の趣味への没頭、勉強への没頭、成績への執着、過食行動、美容への過剰な関心、ペットの溺愛、薬物への耽溺、ギャンブルへの耽溺、ゲームへの耽溺、性風俗/ポルノへの耽溺、結婚への執着、子供を持つことへの執着、完璧な家事への執着、操作的子育てへの執着、、これらは外見上は全く異なるものに見えるが、すべて「健全な自己愛を満たせないことの代償行動」という共通の目的を有している。このような見方に気づけば、個々の活動における満足の具体的手段が「他者からの承認」なのか「達成による自己満足」なのかは大した問題ではない。供給路そのものが不健全なのであれば、その中でどのように本人に自己愛が補給されるかは本質的ではない。

このような自己愛不足状態に陥っている人は少なくないが、その構造に気がついている人はほとんどいないだろう。まずは自分が心理的に満足していないことに意識を向ける必要がある。このことに気がついていない人の中には、自分が補償行動を止められないことに嫌悪感を抱いてしまう人もいるだろう。特にその行動が社会的に奨励されないものの場合はそうだ。一方で仕事への没頭や趣味への没頭に対し自己嫌悪を抱くことは稀だろう。だがそれも、単にその行動が社会的には許容されているという偽りの安心感ゆえだ。この構造に気がつくと、そうした一見「健全な」自己愛満足行動すら自己嫌悪の対象となりうる。その行動について自然とナルシシスティックにはなれなくなっていく。だがその行動にも意味はある。必要悪である。自分が生きていくためには今はその行動がどうしても必要なのである。だから度を越していなければ、つまりナルシシスティックな程でなければその補償行動を取る自分を許してあげてほしい。睡眠時間を削ったり、食糧を十分に買えなくなるほどの金銭を消費したり、他者との健全な人間関係を破壊するほどの時間を割いていなければ、少々のパチンコもゲームも、アルコールも、ショッピングも、ポルノ視聴も、整形手術だって、許してあげて良いのではないだろうか。逆に、勉強だろうと、仕事だろうと、スポーツであっても、基本的自己愛満足を毀損するほどには頑張らないほうがいい。複雑なのは、こうした不健全な自己愛満足方法の中に、結婚や子づくりといった、人間関係を伴う自己愛満足手段が含まれることである。こうした他者を巻き込んだ自己愛行動やペットの溺愛のような対生物的行動は問題の本質を見えにくくする。結婚や子供を持つことは、結果主義的に見るか、過程主義的に見るかで意味が全く異なってくる。健全に自己愛が満たされている人であれば、結婚や子作りは叶わなくても受け入れられるもの=諦められるものである一方、結果主義に陥っている人では、それらは何らかの補償行動であり、達成して満足を得ることにこそ意味がある。そういう人は、生殖医療やマッチングアプリに手を出し、そして結果が得られないことに大きく落胆する。一方でこうした生ある存在との接触が、こうした人に突破口の機会を与えることもまた真実であるように思う。ペットのような動物を含む他者との交流なくしては、彼らも自分が失っていた感情の交換能力を取り戻すことはできない。入り口はナルシシスティックなものであっても、そこでの人との交流を通して本人が心理的に成熟を遂げられれば結果的に問題はない。そのためには自分が本当に欲しているのが心の交流であることに気づくことが欠かせない。そのことに気づかず、ただ自己愛欠乏に駆られて不健全な自己愛行動に手を出すことは、ナルシシズムの病理を一層深めることになる。