承認性からみた自己愛のスペクトラム

この両者を別の軸に取ったが、もう少し詳しく見てみると、両者は社会からの承認という共通項を有している。ここでの反社会性とは一般的に言って非倫理的ということ、他者依存性とはその社会の特定の他者に積極的に肯定されるかどうかということである。つまり肯定されるかどうかを前者はより緩い基準で、後者はより厳しい基準で見ていると考えることもできる。反社会的でさえなければそこには他者に肯定される余地がある、という包含関係だ。例外として、反社会的なものに肯定的な意味を見出す価値観が存在する(暴力、攻撃性といった反社会的な態度の肯定)。健全な生きる姿勢については、基本的には個別の他者依存性はなく、あらゆる人が肯定すると広く信じられている。また私が基本的自己愛と呼ぶ「寝たい」「飢えたくない」「感情を表現したい」という欲求は、他者依存的であるが反社会性は極めて低く、他者依存性のあるものの中では例外的に健全な自己愛となる。それ以外の全ての自己愛欲求は、反社会的なものもそうでないものも含めて不健全ということになる。「反社会性」と「他者依存性」を「社会からの承認」という1つの軸にまとめれば、すべての自己愛欲求はこの軸上にスペクトラムとして存在することになる。最も承認性の低いものがサイコパシックな反社会的自己愛欲求、最も承認性の高いものが古典的道徳教義に類するような自己愛欲求(達成に他者を要さず、倫理性も高い)、そしてそに次ぐ基本的自己愛欲求(達成を他者に依存するが、与えられて然るべき)、そしてその他すべての自己愛欲求という順に並ぶ。

ここで、他者依存性にも2つの側面があることに触れておく。ひとつは、ここまで論じた、「他人がその欲求を是認してくれるか」というもの。もうひとつは、価値観は別として、「その欲求の満足が技術的に可能かどうか」というものである。この技術的可能性という軸は、上記スペクトラムにある自己愛欲求のうち、「その他すべての自己愛欲求」にのみ関係する。生きる姿勢は倫理性にかかわらずその満足は主体依存的であり、基本的自己愛欲求も実現可能性を考慮する必要はなく実現可能性は極めて高くて然るべきものだ(飢餓に苦しむ途上国などではここが満たされていない)。

科学技術の進歩により実現可能となった自己愛欲求には、承認される場が与えられる。技術的に不可能な自己愛欲求は、ただの夢物語に過ぎず、社会からは承認されない。40歳を過ぎて子を持つことは、もはや社会の承認を得られぬ欲求ではないし、男として生まれたとしても、女として生きたいという欲求を実現したいと思うことが許されるのが現代社会である。自分だけのステージで輝きたいという欲求は、SNSにより叶えられたと言ってよい。科学技術により今まで夢物語でしかなかった無数の自己愛欲求に承認の余地が与えられたことで、人々は諦める能力を身につける機会を逸し、基本的自己愛欲求の不足、なかでも感情の表現の抑圧や情緒的交流の不足による人間関係不全を代償する安易な逃避的機会を得ることとなった。かつては経済的繁栄に伴う消費主義が代償満足を得るための主要手段だったが、現代ではそれを追い越してSNSを利用した代償満足の手段が経済状況とは無関係に多くの人々の手に渡り、それが基本的自己愛欲求の満足や古典的道徳教義の復興という問題の王道的解決から人々を遠ざけている。現代の若い人々が、ひと昔前ほどには経済的な豊かさを追い求めない背景には、このような自己愛満足手段の変化、多様化が関与していると思われる。経済的成長は、本来は労働のために削られていた睡眠時間の確保や飢餓による空腹の解消を目的としている。そしてこれらは現代の経済先進国においては概ね達成された。だがその両者を満足したとしても、情緒的交流による健全な人間関係が不足していれば自己愛不全をきたす。そのような状態で人間関係不全という本質から目を逸らし、情緒的交流で得られない満足を経済力や科学技術力を手段とした不健全な自己愛満足で補おうとしているのが現代社会の自己愛構造である。