健全な自己愛満足の不足と補償

人間が生きていくためには一定の自己愛供給を受ける必要があると先に論じた。その配分が健全なものと不健全なものの間でどう分かれているか。人間同士の心の通ったコミュニケーション以外の活動から得られる自己愛供給は、睡眠の充足と空腹の解消を除けばほぼ全てが不健全なものに分類される。そして必要な自己愛の多くを不健全な供給路から得ている人はとても多い。勉強や読書で目が悪くなる人、仕事に「没頭」する人、「過度に」化粧をする人、趣味に「ハマって」いる人、過食の結果肥満している人、そのいずれもが、健全な自己愛満足の供給不全に対する補償行動ではないだろうか。対人コミュニケーションからの健全な自己愛供給が十分な上で行われる社会的活動こそが、ナルシシズムに染まらない健全な社会活動だろう。そういう人には安全装置としてのブレーキが備わっている。ブレーキは健全な自己愛満足が毀損されそうになるとかかるようになっている。自分の補償行動ゆえに人との健全な関わりを保てない、眠る時間が削られる、空腹を無視しなくてはいけない、こういった状況を健全な精神は許さない。

今日の社会では家族関係を始めとした人間関係の不健全さがあまりに蔓延している。そこでは、進学、就職、仕事、結婚、出産といった重要なライフイベントが自己愛満足の不足を補う捌け口として誤用、悪用されている。親や周囲の者から供給されるはずだった温かな人間関係の不足から目を背け、本来は豊かな人間関係の結果として生じるそれらのライフイベントを「社会参加」「一人前の大人」という言葉を盾に目的化し、不足する自己愛をイベント達成により補おうとしている。不健全な自己愛満足の向かう先が、ナルシシズムを原動力とした現状変更であり、幻想的自己への近接体験である。その結果自分の社会的価値が向上したり、社会の利便性が向上したりして生活水準が向上する。だがそうした活動が本当に向かう先は、社会的地位や利便性の向上に見合わない内面の空虚感の顕在化だ。人が内面の充実感を得るためには、利便性は必要ではない。それは経済的後進国で幸せに暮す人々や、果ては動物を見れば明らかである。個人の競争主義の激化や、社会の利便性向上が加速することは、我々の内面の空虚感が深刻化していることの表れであり、そこから真の満足がもたらされることはない。だが社会のこのような動きに歯止めをかけることはもはや不可能であり、我々は個人単位でこの事実に向き合い、自分がその利便性向上の波に呑まれないよう注意を払う必要がある。自分の内面へ関心を向けることは他者への関心を失うことではない。自分の内なる欲求が何であるかを自覚して、それが満たされなくても安易に代償満足に走らないことである。その欲求は、他者との心のつながりを得ることであり、そこには必然的に他者への関心が伴う。内面に空虚感を抱えた人が自分の内面に関心を向けた先には、必ず他者への関わりが存在する。