研修医教育とナルシシズム

医療において、研修者への教育はナルシシスティックなものになりやすい。それは各々の教育者が、研修者が到達すべき理想像を抱いているからであり、そこへの近接を想像することで教育者が満足を体験している場合が多いからである。その理想像が医師として妥当なものであるなら、それは研修者からの反発を受けにくく、周囲からも是認される。だがそのような教育は、往々にして研修者の基本的自己愛、研修者と教育者のあいだの情緒的結びつきを犠牲にして行われてしまう。特に後者については、比喩的ではあるが教育者が理想のほうばかりを向いて研修者の能力や限界、辛い心中といった現実に目を向けないために起こってくる。そうした基本的自己愛、情緒面での結びつきを毀損しない程度に行われる教育というのは、指導という形を取らず、結果にとらわれない、言ったら言い放しの背中で見せる教育ということになる。たとえば「研修者に考えさせる、調べさせる」という理想を持っている教育者がいるとする。その場合、研修者が自分で考えられるような方法や手段を提示したり誘導することは必ずしもナルシシスティックではないかもしれない。だが研修者が自ら考えない状況を許さない姿勢は、姿勢を求めているとはいえ結果を追求したナルシシズムである。一方で相手に答えを提示することも、自分の「考えさせようとする姿勢」に真っ向から反してしまう。したがって「考えさせようとする姿勢」を教育方針として持つことは、自分だけでは完結しないものであり、健全な自己愛満足の方法とは言えない。ではそうした姿勢が不健全であるならば、教育者は「考えさせようとする姿勢」以外の信念を見つける必要があることになる。相手に考えてほしい、自分で調べるようになって欲しいと思うのであれば、自らが取るべき正しい姿勢は、相手に考えさせようとするように誘導、操作するのではなく、自分自身が常に考える姿勢、自ら調べる姿勢を維持することだ。その結果、その場では相手に答えを提示することになったとしても、その相手が自分の調べて考える姿勢を見て行動変容が自発的に起こればそれでよいのだ。

問題は、そのような姿勢を研修者は教育者から容易に学び取ることができるのかということだ。今まで私は、それはあまり期待できないことだと思っていた。だが私が思うよりも実際には研修者は教育者の姿から姿勢を学び育っていくのかもしれない。そうであれば、答えをいちいち提示しながら教えたとしてもそのこと自体には問題はないのかもしれない。教育者自身が分からないことを自分で調べるという姿勢を貫いている限り、研修者へは聞かれたことを答えていればよいという気構えでいれば、教育というのはさほど難しくないのかもしれない。そこで問われるのは、自分が知識を得る参照先選択の適切性のみだろう。

研修者が自分で調べることをせず頻繁に答えを求めてくるとき、教育者としては「この姿勢を変化させなくてはいけない」という使命感に駆られるかもしれない。だがそう考えることは結果主義であることに注意すべきだ。正しい認識は「この研修者は何らかの理由でまだ行動変容を起こすに至っていない」というものであり、それは研修者側の問題を示唆するものではなく、教育者側の平時の教育手法をいま一度振り返るきっかけとなるものだ。