医師の教育姿勢

ナルシシズムが本質的には悪であるとしても、医療の現場においては行われる医療が適切な範囲にコントロールされなくてはならない。それを緩く縛るのが保険適応のルールである。EBMを信条とする医学教育は、妥当な医療の範囲をさらに狭める。その範囲をどこまで厳しく狭めるかは、現場で指導的立場にある医師の裁量に委ねられていると言ってよい。これが行き過ぎると、EBM原理主義的なナルシシズムを生む。では医師は自身が理解するEBMの範囲で医療を実践するのみにとどまり、他者、特に研修者の行動を全くコントロールしなくて良いかというと、そうはいかないだろう。研修者に全く自由にさせていたら、患者に実害が出ることは容易に想像できる。患者の要求に節度を持って応じることも同じである。この「実害の及ばない範囲で、最大限の許容幅を持たせる」というのが、ナルシシズムに陥らない医療および医学教育の適切な妥協点かもしれない。そしてその妥協ラインは、私などが従来考えていたところよりももっと低いところにあるのかもしれない。

ナルシシズムに陥っている医師は、周囲の行動を自分の理想と一致させていくことで満足を感じることにあまりにも慣れてしまっている。それは5歳児のわがままと本質的に変わりがない。彼らは挫折経験の不足から、諦める能力を十分獲得してこなかった。たとえ自分が求める理想的医療が社会通念的に正しいものだったとしても、そうした満足方法は不健全である。本来、医師が満足を得るのは自分自身が信念に沿って行う医療行為からである。その信念が妥当なものである限り、結果として概ね信念に沿った医療が実践されることになる。信念が許容範囲の著しく狭いものに偏っていれば、妥当な現実的医療からさえも自己愛補給を受けられず、信念の「実践」にこだわっている場合、それは結果主義に陥っていおり、その者にとって満足のいく医療を実践することは常に息苦しく、理想と現実の乖離から傷つきを感じる場面の多いものになる。一方、信念が希薄な場合も、自己愛供給を受けるための姿勢を欠くことでその者は容易に個々の患者のアウトカムについての結果主義に陥り、一貫した信念を持てないことから医療の実践による自己愛補給が難しくなる。

「教育活動」といわれるものは、外へ出て行って他者の行動を変えようと躍起になる活動ではなく、普段自分が見せている姿勢を、より見やすい舞台でスポットライトを当ててもらい易視化する行為と言えるだろう。問われているのはあくまでその教育者の姿勢の妥当性であり、参加した者の行動が変わるかどうかではない。参加した者の行動が変わるかどうかは教育姿勢の質を反映したものであって、変わらなかったとしたらそれは教育者の姿勢の妥当性に何かしらの問題がないかを振り返る材料となる。勉強会を開いたのに人が集まらなかったとき、その現象自体がその教育活動の根本的欠陥を示唆している可能性があるのであって、集まらない人間に向上心が全く欠けていない限り、受講生に非はない。