諦め、我慢、上方比較、下方比較

私は諦めること、我慢することが心の成熟には不可欠と考えてきた。だが、諦めや我慢は、上で考えたように不健全な自己愛供給路を持っていることの裏返しでもある。つまり健全な自己愛供給路のみを持つ、非常に心の成熟した者にとっては「諦め」や「我慢」ということ自体が存在しない。健全な自己愛追求の過程には、諦めや我慢という関門は出現しないから、彼らはいくら自己愛を追求しても、諦める必要もなければ我慢する必要もない。もし彼らが我慢し、不満を感じ、怒らなければならないとすれば、それはその人にとっての人間の尊厳の危機を意味する。それこそは正当な不満であり怒りである。そこでは不眠や空腹が解消されず、感情が抑圧され、そしてあらゆる道徳的行動に対する不当な制限が加えられている。(人に親切にしようとすることを許されない、人を信じることを許されない)

不健全な自己愛供給路は誰しもが持っている。女性がいつまでも若く美しくありたい、男性でも永く健康でありたいと願うことは、ここで議論している自己愛の性質としては不健全だが現実には広く共有されたものだ。そうした「普通の」人々が心を成熟させていくためには、やはりそれらを諦めること、不満なく受け入れられるようになることが不可欠だろう。自分が老いていくこと、病気になることに抗わず受け入れる。周囲が自分の言うことを聞いてくれないのを当然と受け入れる。それができることは負けることでは決してなく、人間としての高みへと進歩することだ。それができるためには、自分より境遇の良い他者との比較は危険であり、むしろ自分より不遇な者との比較が役立つだろう。下方比較は自己の進歩を阻害すると言われるが、果たしてそうだろうか。そこでは結果主義と姿勢主義が混同されている。下方比較が批判されるとき、彼らが批判しているのは結果が出ないことを下方比較で正当化し、本来正しかった取り組みの姿勢を崩してしまうことなのである。「あれぐらいしか出来ていない奴がいるのだから、自分だってそれぐらい出来ていれば今の姿勢を崩してもいいさ」というわけだ。それは自身の姿勢の一貫性の喪失につながる。逆に上方比較は、その結果だけに注目することでナルシシズムが助長されるために批判の対象になるが、上方比較が自身の態度的価値をより高いものに進化させることができるならば歓迎されるべきものである。「あの人はあれだけの結果を出している。ならば自分よりも優れた姿勢を有しているのではないだろうか」というわけだ。人生の目標とは、自分の生きる姿勢を少しずつ洗練していくことにある。結局は上方比較も下方比較も、姿勢、態度的価値を見直すきっかけとして利用される限りにおいては善であり、結果だけに注目してしまうと上方比較はナルシシズムの助長、下方比較は姿勢の劣化につながるためいずれも悪となる。他者の結果に注目することの有用性は、より良質な態度的価値を見出す可能性があると考えればこそである。だが上方比較する対象の業績はナルシシズムの産物かもしれないし、良質な姿勢から生まれる結果は必ずしも姿勢の質に比例しないことを我々は心に留めておく必要がある。良質な姿勢からくる自然な努力は、短期間での大きな成果を生むものではない。健全な努力には、その努力量にも成果量にも天井がある。基本的自己愛の不満が彼らの努力量に上限を設定してくれる。健全な努力においては短期的な成果が制限され、長期的な継続により初めて大きな成果がもたらされる。短期間で大きな成果を出している場合、それを駆動するのは多くの場合ナルシシズムである。ナルシシストは基本的自己愛の不満を突破して努力する。だがその努力は長持ちしない。長期間のナルシシズム的生産行動は、人間としての大切なものを犠牲にしないと成り立たない。人生早期からの健全な努力に基づく継続的生産活動こそが、最も盤石な結果をもたらす。「大器晩成」とは健全な努力の必然の帰結である。