自己愛の反社会性と他者依存性

冒頭で、信念のベクトルを反社会性と他者依存性に分けた。だがよく考えてみると、反社会的ということは、社会の承認を得られないという意味で他者に評価を依存する面をもつ。街中を全身ショッキングピンクの衣装に身を包んで歩いている人がいたとして、おそらく当人に聞けば「私は良いと思ってやっている」と答えるに違いない。生物学的に男性だが、女性として生活している人も同様だろう。それは一見、他者に依存しない信念で生きているように思える。だが、そうした人が周囲の者全員からそのことをバカにされたりからかわれたりしたとしても、彼らはなお平気でいられるだろうか?もしそうでない、つまり他者の指摘で自己愛の傷つきが起こるなら、その信条は他者依存的な面を持っていると言える。少しでも反社会性をはらんだ信条は、同時に他者依存性をはらんでいる可能性があり、この2つのベクトルは完全には独立していない。問題は、周囲=社会(の一部)の承認を得られなかったとき、それに対してどのように本人が感じるかということだ。

親切にする姿勢、嘘をつかない姿勢、人を信じる姿勢、といった健全性のきわめて高い信条というのは、実行性において他者依存性がないばかりでなく、反社会性もきわめて低い。つまり社会の大多数の人がそのような信条を是認してくれると考えられている。朝に納豆を食べる、週に3回ジムに通う、といった信条は、実行性においては状況により他者依存性があるが、一般社会における反社会性はほとんどない。ただ「家族」といったより小さい単位での「社会」を想定すれば、これも状況依存的に反社会性を帯びることになる。これは実行性において状況依存的に他者に依存するという先の概念に等しい。他人は自分に常に注目するべき、自分の主張は耳を傾けられるべき、といったものになると、他者依存性、反社会性はより大きくなる。

こうしてみると、他者依存性のベクトルと反社会性のベクトルはじつは同一のもののように思えてくる。他者をさまざまな規模での「社会」とみなすことで、他者依存性を反社会性と同一のものと捉えることができる。自分の実行したことが「是認される」からこそ自己愛が高まる。それを是認するのは「自分」か「他者(=社会)」の2者である。社会の大多数が是認する信条に自分が是認する信条が一致している者は、自分の信条に対して自身と社会の両者から是認を受けることで、社会生活の中で幸福に自己愛を満たすことができる。自分の肯定軸と、世間の肯定軸がズレているほど、是認を自身に頼らなくてはならないので生きづらくなる。人に親切にしようとする→音楽で人を楽しませる→競争に勝つ→ショッキングピンクの服を着て歩く→人を傷つけて快楽を得る、この順番で社会生活での自己愛満足は難しくなるだろう。

現代では、それが不健全なものであっても各々の自己愛満足の方法を互いに尊重しなければならない「自己愛型社会」になりつつある。社会の同質性が価値を失い、「個の尊重」が独り歩きした結果である。経済的な総中流化や科学技術の発達が大衆にさまざまな自己愛満足を供給する手段を与えるようになった。農村出身者が都心でカフェを経営することが十分実現可能と考えられるようになり、貴族出身でなくても金さえあれば世界一周旅行に行くのはさほど難しくない。40歳を過ぎても子供を産みたい気持ちを一笑に付されず、男として生まれても女として生きることを勇気づけられたりする。それを「欲しがりすぎ」と責めようものなら、どんな非難に遭うかわからない。そうして人々は自己愛を自由に肥大させ、諦めるべきものとそうでないものの境界はどんどん曖昧になっていく。不老不死の欲望にも似た自己愛を抱えて病院を訪れ、医療に過度な期待をする人は現代では決して珍しくない。

その人の信条を社会生活で想定可能なあらゆる場面で実行、達成しようとしたとき、何らかの制限が加わる可能性があるか。もしあるなら、それは実行や達成を社会すなわち他者に阻まれるという意味で他者依存的でもあるし、そこで我を通すことは反社会的でもある。つまりこの2つは同じことを言っているという見方ができる。サイコパシックな殺人狂も、法という社会ルールの壁に阻まれてその自己愛満足は達成されない。毎朝納豆を食べることも、家庭という社会の円滑運営の下では達成が困難だ。周囲が自分の意見に必ず耳を傾けるという状況は、家庭や自分がリーダーのグループでは可能でも、ほとんどの組織社会では不可能だ。だが人を信じることは、どの社会であっても制限が加わることはなく実行可能である。実行する本人はそれを「我慢」しなくてはならない場面に出くわさない。「周囲を含めた円滑な社会生活のために、どの程度の我慢が必要か」というのが、信条の健全性を測る単一の尺度かもしれない。