嫌悪感

自分の是認軸すなわち価値観というのは、一朝一夕に変更できるものではない。それは文化や養育環境に大きく依存している。自己愛型社会において、自分の本心からの価値観と周囲の価値観がズレているとして、それを尊重しなさいと言われたとき、おそらく多くの人、特に自他の区別が曖昧な人は、それを表面的には是認できても、本心から「尊重」することは難しい。自分を欺いているような、自分の本心に背いた言動を取っているような気分になって不愉快である。そこで相手を自分の価値観に合わせようとすれば、それはナルシシスティックな操作欲求となり、不愉快感は怒り、不満へと変化する。では自他の区別が曖昧な人は、自分の本心に背いて顔をひきつらせて自分と違う価値観をニコニコしながら是認したふりをしていればよいのか?それは違うと思う。そうした相手に抱く感情として適切なのは、ナルシシズムにもとづく不満や怒りではなく、「嫌悪感」ではないかと私は思う。自分と異質のもの、特に道徳的観点に照らして自分のよりも劣った価値観をもつ者に対して、それを肯定することはやはり腑に落ちない。だが相手の価値観の否定や現実改変、不満、怒りがいずれも幼稚な心の動きだとすれば、やはりそれは「嫌悪感」として表すのが適当であるように思う。「私はそれを善いとは思わない、だがそれは現実としてそこに存在する」という状況において、賢者のとる行動は、そこから距離を起き、それに対する自身の考えを述べ置くというものだろうと私は考える。教育の項で述べたように、正しい教育姿勢は姿勢で示し、言い放すことであった。それと同様に、対象に対して操作を用いず、ナルシシスティックにならず、自らの姿勢を示し、それをそのままに放しておく。姿勢で示すとは、自らの価値観を表明し、自分は自分の価値観に従って淡々と振る舞うことだ。靴を揃えずに家に上がる人がいたとして、それを糾弾するのではなく、自分は毎回靴を揃えて家に上がる。そして相手の価値観に対しては、否定も是認もする必要はない。それを決めるのは他者であり社会であり、個人としてはその価値観を「嫌悪」するのみである。ただ、嫌悪する対象は、「人間としての相手」ではなく、相手のもつ価値観なのだ。これは「罪を憎んで人を憎まず」の考え方に非常に近い。だが対象から価値観を区別するのは多くの人にとって易しくはない。怒りや不満として表現される場合には特に相手の全人格に対する攻撃や否定に繋がってしまうことを頻繁に目にする。「あなたのここが嫌い」と考えるのは健全だが、「こういうことをするあなたが嫌い」というのは未熟な心をもつ者の批判の仕方だ。「自分と他者を区別する」ことと並んで重要なことは「『全人格的他者』と『他者のもつ種々の価値観』を区別する」ことなのではなかろうか。それができれば、目の前の人間が道路にゴミを捨てたとしても、それがその人に対する全否定には繋がらなくなる。ゴミを捨てたその人は、他者への優しさや誠実さを持つ人物かもしれないし、人を信じるという崇高な信条の持ち主かもしれないのだ。

道徳的観点からみて自分のよりも劣った価値観に対しては嫌悪感をもてばよい。だが自己愛型社会においては、道徳的にはより中性的だが不健全といえる自己愛の満足手段が無数に転がっている。過度な化粧、体を鍛えること、蒐集癖、ほかさまざまな「趣味」と言われるようなものすべてが含まれる。こういった自己愛満足の直接的な害を被る者(高額な骨董の蒐集癖をもつ者の家族など)を除けば、それは第三者からみて嫌悪感を抱くほどのものではない。その際の態度としてもっとも妥当なのは「無関心」と思われる。自分の自己愛の満足方法には、特に近しい人には関心を示してほしいというように感じる者もいるだろう。だがそれ自体が相手への操作欲求の表れであり、異常な心の動きである。たまたま相手との自己愛のベクトルが一致すればそういうことも起こるだろうが、それがイコール愛情ということではないのは明らかだ。それは「馬が合う」というようには表現できるかもしれない。相手への愛情、尊敬とは、そのような偶然の自己愛ベクトルの一致から起こるものではない。尊敬は、相手のもつ健全な信条が普遍的価値観のな観点から優れたものであるときに、それを感じ取ることができるのである。それを持たぬものは、どれだけ他者依存性の低い不健全な自己愛ベクトルを持っていたとしても、ほんとうの意味での尊敬を受けることもはない。愛情となると、それはもはや相手の自己愛満足手段とは無関係とすら言える。愛情とは無条件のものだからである。料理が上手いことも、給料が高いことも、いずれも結果主義的な自己愛満足にしかならない、料理を上手に作ろうという姿勢や、勤勉であろうとする姿勢すらも、それが誰かの幸福を願ってのものでなければ健全な姿勢ではない。料理を犠牲にしても、仕事に穴を開けてでも守りたい、より崇高な信条を持っているかが大事なのだ。そのような信条のうち、おそらくすべての人が有し、尊重されて然るべきなのが、眠気と空腹を解消したいと思うこと、そして感情を抑圧したくないと思うことである。その上でさらに、人に親切にしたい、誠実でありたいといった個々人によって異なる健全な態度的価値がある。人格を決定づけ、尊敬を生じるのは後者である。これを他人とのかかわりにおいて考えるなら、相手の睡眠と食事を邪魔しないこと、相手が感情を抑えてしまうほどの無理を強いないこと、そして相手の健全な態度的価値を守ることである。これを可能にするには、基本的自己愛の上に形作られた相手の態度的価値を認識する必要がある。相手を知るというのはこういうことだろう。

健全な態度的価値は、その人の自然な感情から生じるように思う。もしそうだとすれば、感情から距離を置いてしまっているナルシシストがそのような態度的価値だけを無理に打ち立てようとしても、それは偽善的にならざるを得ない。彼らがそのような態度的価値を真に持つためには、その前提として自分の感情の抑圧を解き、他者との情緒の交換を可能にすることが不可欠になる。