自他の区別のつけやすい相手

車で割り込まれても、それがYナンバーの車であれば「なんだ、外国人か」と比較的怒りを感じずに済むことに気がつく。これは相手と自分を別種の人間と直感的に判断していることに基づいているようである。自他の区別がつけやすいのだ。だが相手が日本人であれば、腹が立つ。これは無意識に相手が自分と同じ価値基準を持っていると考えてしまうことによる。知人間のできごとでも「あいつは変わってるから」と、非常識と思える行動を許容できてしまうことがある。逆に親近感を持つ人ほど、ついその行動が自分と同じであることを求めてしまう。視点を変えれば、相手の価値基準が自分と類似していると感じる人に好意を抱いたりもする。自己愛の観点からは、好意を抱く基準が価値観の類似に基づくものというのは望ましくない。所詮は他人であり、親密になれば価値観の相違が次々に明らかになるので、相手に抱いていた幻想が崩壊するのは不可避となる。通常、というか私の感覚では、相手を全く価値観の異なる人として認識した場合、あまり好意的な感情は湧かない。だが本来他人との付き合いは、自他が別の存在であることを前提としておこなわれるものである。他者との価値観の違いが当然存在する上で、相手に魅力を感じるというのが人間どうしの健全な付き合いというものだろう。相手の価値観に違いを見出す度に不満を感じる付き合いをするか、「こういうふうに考える人もいるのか」と新しい発見をする付き合いをするか、ということだろう。価値観が違う人間に対して抱く好意というものはどういったものなのだろうか?自分が持ちたくても持てなかった、普遍的で良質な態度的価値を相手が持っているときにそのような感情が生じるのだろうか。