生きるために必要な自己愛量

人が生きていく上で、一定量以上の自己愛供給がなされなくてはならないように思う。眠気、空腹が解消されることの他に、本来なら健全な人間関係による情緒の交換からそれは十分量が供給されるはずだが、現代ではそれが難しくなっているのだろう。代わりに、競争勝利、自己顕示、業績誇示といったことが自己愛供給の代替手段となっている。だがこれらの手段で得られる満足にはいずれも永続性がない。競争には勝ち続けなくてはならず、自己顕示、業績誇示もそれを続けるためには無意識にせよ能動的な反復が求められる。自己愛供給をもたらすような情緒の交換の術を幼少期から身につけている者は、さしてエネルギーを必要とせずに継続的な自己愛供給を他者との触れ合いから得ることができる。まるで、幼少期からの厳しいトレーニングで卓越した演奏技術を身に着けたものが、もはやさほど労せずしてそのパフォーマンスから継続的な賞賛を受けることができるように。だがこのように一芸に秀でたものは、ほんとうの意味で健全な自己愛供給を受けているとは言えないのかもしれない。技芸の習得に没頭できるのも、ナルシシスティックな努力の賜物である場合があるからだ。自己愛供給の方法は人によって異なる。技芸の向上を伴わない競争、たとえば受験戦争や社内出世などの近視眼的な競争に勝つことばかりが自己愛供給源となる人は、後年になって深刻な自己愛供給不足に陥る。彼らは感情を喪失し、人との情緒の交換ができず、せいぜい睡眠と食事からしか健全な自己愛を供給できない。彼れはそれ以外に健全な自己愛供給路をもたない。だがそれだけでは生きていく上で十分な自己愛供給には足りない。彼らはそのナルシシズム故に健全な生きる姿勢という態度的価値も発達させてこなかった。だからただ生きることからも自己愛供給を受けられない。そこで彼らは不足分を満たすために何らかの自己愛供給源を求めるようになる。それはどんな手段にせよ必然的に不健全=ナルシシスティックなものとなる。それは楽器を上手に弾く自分のイメージへの近接体験かもしれないし、筋骨隆々となった自分のイメージへの近接体験かもしれない。優秀な子供の所有者となることへのイメージ、都心に一軒家を所有するイメージ、アパート経営をして不労所得を得るイメージ、世間をあっと言わせる事件を起こして有名になるイメージ、、、。それらは社会的な有益性を秘めたものから、反社会的なものまで様々なスペクトラムで広がっている。だがいずれも幻想への近接体験からくる自己陶酔であることに代わりはない。そしてそれは達成されたとしても満足感の永続性はなく、その後には本人にも説明不能な空虚感をもたらし、達成されなかったとすれば自己愛の傷つきから自己嫌悪、無気力を引き起こす。自らのナルシシズムに気がついた者には、そこからある期間は必ずつらい時期が待っている。それは自分の大切にしたい信条に気がついたとしても、それをしばらくは自身の自己愛供給源としては活用できないからである。ある信条を実践しながらそれなりの期間を生きることで、はじめてその信条は彼の自己愛供給源となる。「自分はこのように生きてきたし、今日もその通り生きた」という自己一貫性の感覚こそが自己愛供給のためには必要なのだ。そんな彼らが健全な自己愛供給を受ける可能性があるとすれば、方法は2つある。ひとつは人生の態度的価値を確立することである。ナルシシストがナルシシズムを克服するには、自分の中に自分が納得できる健全な態度的価値観を確立することである。もうひとつの方法は、その人が喪失/抑圧した感情にふたたび目を向けることだろう。そんなことが可能なのかは分からないし、少なくとも容易ではない。だがナルシシストも全ての感情を失って情緒の交換が全くできないわけではない。そんな彼らが感情を取り戻すには助けになってくれる他者の存在が不可欠である。親との間では叶わなかった情緒の交換を許してくれるような他者が彼らには必要だ。自分のファサードを維持するために言うことができなかった言葉を口にし、取れなかった態度を取れるような場ないし人が彼らには必要なのだ。彼は家庭では母親の癇癪に怯え、感情的になることを良くないこととして抑え込まざるを得なかったかもしれない。だが本来家庭は感情的になることができる稀有な安全地帯であるべきだし、社会においても適度な感情表現は禁止どころか人間として歓迎すらされるものなのだ。彼にはそれが経験として認識できていない。彼は幼少期に自身に課されたイメージに縛られたまま人生を生きてきた。彼はそこから解き放たれる必要がある。この人の前なら、この場所なら、自分が本心から思うことを表現してもよいのだと抵抗なく感じられる場所が、彼にはどうしても必要なのだ。