指導、教育

誰かを指導することは、その人の価値観を他者に押し付けることである。その価値観が社会常識や専門的領域において適正さを保っていれば、方法論は抜きにして一応その指導には正当性があるとされる。指導にはその価値観が相手に共有されるという大目標があり、それはすなわち相手の行動変容であり、相手がこちらの意図通りに操作されるということと同じである。つまり指導とは操作であり、相手の行動変容を目標とする限り、指導にはナルシシズムが伴う。

目標設定を前提とした「指導」にたいして、「教育」にはさまざまなニュアンスや形があるように思える。指導的教育という見方もできるが、教育は必ずしも指導のように目標設定、行動変容を前提としない。ある人物、例えば親が見せる生き方、姿勢を目の当たりにし、その人の姿勢を自分も真似ようとするとき、理想化対象は相手の行動変容を目的として振る舞ってはいないが、それは紛れもない「教育」である。ただそこに「在ること」による教育である。不健全な親子関係では、親が子に対して親を理想化対象として行動するよう誘導、強制する。一方的な価値観の押しつけである。親子関係が健全な場合は、親にたいして子供がそれを理想化対象として動くかどうかは子供の方に完全な主体性がある。親方と弟子といった師弟関係は、健全な親子関係よりも一歩進んで、関係を結ぶ時点で弟子の行動変容を前提としているものではあるが、通常師匠のほうが弟子の行動変容にさほどの執着がないことも多いだろう。弟子は自分の意思で行動変容を起こそうとする、つまり弟子の側の主体性が大きい。これが指導となると、指導する側は自らを理想化対象とすることを求めており、指導される側の主体性はほとんど失われている。

結果ではなく姿勢に満足する教育というのは、教育する者からするとなかなか難しい。成果の見られない、あるいはあるとしてもゆっくりとしか成果の出ない教育というのは、本人に短期的な実感が伴わないため、そこに自己愛の満足を感じることが困難なのだ。どうしても短期的な成果そのもの、あるいは短期的な成果をもたらした方法=ナルシシスティックな方法に満足を覚えるようになるだろう。そこでは怒りも教育という言葉を盾に正当化される。結果を急ぐことはナルシシスティックな教育を促進する。それは教育される側にも結果を急がせるナルシシズムを生み、地道な努力よりもがむしゃらな努力が賞賛され、教育全体に空虚さをもたらす。理想的には、どの領域においても、教育される側の主体性を最重要視した「健全な教育」が目指されるのがよい。その結果、教えられる側の成長が緩やかなものだったとしてもそれでよいのである。教育者は、教えながらもつねに自分が相手の行動変容に執着していないか自らの心に目を光らせる必要がある。教えられる側が教える側の思い描くように変化しないとき、それは相手に対し怒りで反応する機会ではなく、自らの方法論、姿勢の示し方に誤りがないかいま一度目を向ける機会なのである。教えるその人固有の単一の方法が最適とは限らない。相手が10人いれば、10通りの最適解があるとみるのが妥当だろう。親が子に「背中で教える」のと同じように、あらゆる教育も、適切な教育の「姿勢」を示しながら、それを一貫した行動として続けることが教育行動に充実感をもたらす。相手の個々の行動変容の達成は刹那的な満足しかもたらさない。行動変容や結果に執着したあらゆる「指導的教育」は悪である。

ナルシシスティックになってしまった教育者がそこから回復するためにはどうしたらよいか。彼はまず、相手が自分の教えで変化することへの期待を完全に手放さなくてはならない。彼には長期的な視点が必要である。長期的にみて成長している人はだれに師事しているのかを見る。その師匠はおそらく、表面的には部下に期待せず、ただ淡々と背中を見せているだけに見えるだろう。そこに魅力を感じ取った者が、彼を模倣しようとすることで成長していくというのが健全な教育のあり方のように思われる。教育は結果で測れないが、教育は結果に現れる。