嫌悪感と不満感

他人に不満を感じたとき、相手に怒りを覚える者が無意識に行っていることは、相手の行動変容への欲求を抱くことだ。本来は、相手の行動変容を欲するのではなく、自分が同様の行いをしないという気持ちを強くすることが健全な思考回路と言える。自分が何らかの考え方、信条を持っている限り、「嫌だな」という感覚を抱くことは当然であろう。健全な信条に反する行いを見たときに、負の感情を抱くことは自然なことだ。だがそれが不満、怒りといった感情に即座に変換されてしまうのは道理ではない。その背景にはナルシシズムの片鱗が見られる。嫌悪感と不満感は似て非なるもののように思われる。嫌悪してもそれが自分の一部ではないと感じていれば不満は生じないだろう。健全な人物は、嫌悪感を抱くことがあってもそれが不満感や憤怒の感情にはならない。他人が違法駐車をして自分の通行が妨げられるのを見て、「迷惑をかけている人がいるなぁ」と感じるのと「邪魔だなぁ」と感じるのは似て非なる感情の動きだろう。他者の自分と異なる価値観が自分の利害と接触する度合いが大きいほど、嫌悪感がそのまま不満感となりやすい。その場面で、自分の信条の芯を守りつつも柔軟に現実を生きられるかどうかが、その人のナルシシズムの深度を表している。ナルシシズムの最も深刻な者は、自身とほとんど関係のない出来事にも価値観の相違に基づく不満や怒りを抱き、攻撃的に批判する。好き嫌いの激しい人は必ずしもナルシシストではないが、こだわりが強い人はナルシシストである。どれだけ嫌いなものがあっても、それを自分の外部のことと考えられれば、嫌いなものを目にしても不満なく生きられる。自分の外部のものを自分の一部のように考え、そこに変化を求めることで不満や怒りが生じる。

実生活で利害が衝突する場合に不満や怒りを抱くのは、ナルシシストではなくても人間一般に広く見られることであるが、それは基本的自己愛の範囲を超えたところでは確かに個々のナルシシズムのぶつかり合いである。ナルシシズムに侵されていない者は、ナルシシストとの親密な関係にある程度耐えることができるが、それは一方的に傷つけられることを許すことであり、健全な関係ではない。

それぞれが一人の中にさまざまな価値観を持つことから、その人のあらゆる面を肯定することは他者には難しいだろう。自分と同様の価値観をもつ面もあれば、反対の価値観をもつ面もある。これらを自分ではない相手の一部と認識できるからこそ、相手との人格的な付き合いができる。それができない人は、相手を自分に同一化できるものと考え、当初自分と価値観の似た部分を見つけるとあたかも全人格が自分と同一だという幻想に浸って相手を理想化するが、ひとつの面で価値観が合わないことが明るみに出ると、まるで相手の全人格が自分とは異質なものと感じて反感を抱くようになる。相手の嫌な面は、さまざまな価値観の集合体である個人の一部分であるという当然の事実を認識してはじめて、人との健全な付き合いが可能になる。