医療と自己愛、ナルシシズム

仕事をこれ以上頑張れないと感じるとき、彼は仕事を通して自己愛の補給を受けることができなくなっている。睡眠を削られ、空腹を解消する食事の時間を奪われ、感情を無視してノルマに取り組まざるを得ないとき、それはまさに基本的自己愛の剥奪が起きており、頑張れないのは当然のことである。以下は、基本的自己愛の満足がなされた上での考察である。

ある者の仕事を通した自己愛の補給方法は、ナルシシスティックなもの=他者依存的なものかもしれないし、健全なもの=非他者依存的なものかもしれない。医療であれば、前者はイメージ通りに周囲から評価されることであり、その手段は金を稼ぐことであり、出世すること、開業すること、論文を出版すること、書籍を出すこと、研修医から感謝されることであり、これらすべてがナルシシスティックな自己愛供給をもたらす。彼らは肩書が得られないときに、論文がリジェクトされるたびに、給料が下がるたびに、研修医から思うような反応が得られないたびに、不満を感じる。彼らは結果を追い求める。健全な者は、患者の身体、精神の不調に寄り添い、自身にできることを行おうとする姿勢そのものから満足感を得る。その姿勢とは今日ではEBM、ガイドラインに準拠しつつも、柔軟に現実と折り合いをつけながら診療することである。そこでは、患者からのネガティブな反応は自己愛の傷つきにはつながらない。それは自身の診療姿勢を見直す材料として使われはしても、自身の姿勢の一貫性を根底から揺るがすことにはならない。またある医師は、医学の進歩に貢献するという大局的観点からの信条を有しているかも知れない。そうした者にとっては、論文の出版や講演、研修医教育も健全な自己愛補給路となり得る。彼らは論文がリジェクトされても、講演の反応が芳しく無くても、他責的にはならないだろう。彼は現実が変わらないことを嘆くよりも、自分の主張のほうを見直す。医学の進歩に自分が貢献できるという意識を持つこと自体が、ある種の特権意識の表れとも考えられ、健全な意味でそのような姿勢を持つものは希少かもしれない。

結果主義者にとって失敗は、「望んだ結果を得る」という彼らの一貫性の根拠をいちいち突き崩す。正しい職業人のあり方は、早期に仕事に望む正しい姿勢を発見し、その姿勢を貫くことにある。ある職業では、相手に親切にすることが最も大切にすべき姿勢かもしれないし、またある職業では、正確であろうとすることが何より大切かもしれない。医師においては、EBMに準拠しようとする、あるいはEBMそのものを底上げしようとする姿勢を基本としつつ、その上にそれぞれが大切にする信条(親切であろうとする、相手を敬う、時間を守ろうとする、など)がある。これらの信条はいずれも何らかの結果を指向したナルシシスティックなものではなく、自身の姿勢に関するものが望ましい。EBMを指向すること自体が最も大切なことではない。EBMへのこだわりは結果主義=ナルシシズムである。EBMを実践することにこだわる者は現実がEBMの実践を妨げるたびに不満を抱く。重要なのはEBMを実践しようとする姿勢を維持すること、そのために現実との折り合いをつけ妥協点を見出すことである。健全な医師は、EBM通りの医療を100%実践できないことに不満を抱かない。ただ殆どの医師は、その健全な姿勢を早期に見出し、そこから安定した自己愛供給を受けることに失敗する。そんな中で、彼は代償満足を得る方法に触れる。論文を世に出すこと、人前で発表して喝采を受けること、本を出版すること、肩書を得ること、「教育者」となること、多額の収入を得ること(そしてその金でモノを消費、所有すること)、果ては結婚すること、子供を得ることまでもが代償満足の手段になる人もいるだろう。彼らナルシシストに共通するのは、彼らのそうした業績が偶然の産物ではなく一次的な目的であるということである。医師に代償満足を得る選択肢がこれはど多く与えられているのは、それだけ本業からの健全な自己愛供給が困難だからかもしれない。逆にこれだけ多くの選択肢=逃げ道が与えられていることで、医師は自身のあり方を見直す機会を得るのが困難になる。医師でいうところのEBM実践に相当する自己愛満足の主軸を看護師で考えてみる。その軸は病人のケアであろう。彼らの自己愛供給も、ナルシシスティックなものとそうでないものに大別される。病床に伏す人の世話をすることそのものに喜びを感じる者と、世話した相手から何らかの感謝を示されて初めて喜びを感じる者がいる。前者は健全な自己愛満足、後者はその満足を他者からの反応に依存した不健全な自己愛満足である。前者は仕事を継続することが喜びの蓄積につながるが、後者にとって仕事の継続とは傷つき体験の蓄積を意味する。どちらが離職につながりやすいかは明らかである。