医療と尊厳

尊厳とは自尊心を傷つけないことだとすると、その本質は基本的自己愛が満たされるということになる。睡眠が保証されること、空腹が解消されること、感情の表出が許されること。これらに加え、衣食住という観点からは、裸をむやみに見られないこと(衣)、私的生活をむやみに覗かれないこと(住)というものを付け加えられるだろう。病院で起こる尊厳の侵害というのは、検査のために赤の他人に衣服を脱がされたり体を触られたりということ、個人の氏名が剥奪され番号化されること(固有の私で「あること」の否定)、曖昧な理由で食事を許されないこと、眠りたいのに睡眠が剥奪されること、感情に寄り添ってもらえないこと(この意味で看護師の果たす役割は大きい)、といったものが基本的自己愛の不満に近いところにある。次に、痛みを除かれないことそのものは、以前の考察から基本的自己愛の不満とはやや異なる。基本的自己愛がしっかりと満たされていれば、痛みを完全に取り除くことは必要ではないというのが私の考えだ。ただ現実には、基本的自己愛が感情の表出も含め十分に満たされることは稀なので、代償的に疼痛への配慮はやや過剰なものとなっている。医療者の側が、行き届かないケアを除痛により補償しているように感じられる(「痛みをとってあげているんだから言う通りにしてくれよ」)。そして次の段階として、快適なベッドで眠れない、好きなものを食べられない、好きなものを着られない、名前を他の人に知られる、といったものはもう一歩ナルシシスティックなレベルでの自己愛不満と言えるだろう。この考え方で言えば、こんにち注目を集める「私の思うように最期を迎えたい」という自己愛は、命に対する操作欲求と呼べなくもない。医師は医師の思うように患者を看取りたい。ときには全力で最期まで治癒を目指したい。患者には患者で迎えたい最期がある。そこにはナルシシズムのぶつかり合いがある。だがこの「患者の思うような最期を」という風潮は、現実には医師のこれまでの行き過ぎたナルシシズムを抑制しようという動きである。人工呼吸器、心肺蘇生、そのほか過剰な治療を終末期に施す風潮を止めよという動きである。患者が特別な医療行為を望む場合は多くない。多くの場合、命をコントロールしようとしているのは医師の側であり、それに煽られた家族であり、一方で患者自身は人間の自然な最期というものを受け入れたがっている。だが現実はすでに「自然」であるところから「幻想」の側へだいぶシフトしてしまっている。この「自然であることを受け入れる」とはすなわちコントロールの放棄、つまり「ナルシシズムからの脱却」と意味している。尊厳とはナルシシズムの対局なのだ。問題は、かつては反社会的かつ他者依存的=ナルシシスティックと思われた治療のいくつかが、今日では技術の進歩によりその反社会性を弱め、単にナルシシスティックなものになってしまったために抑制が効きにくくなっていることだ。学会などで、明らかに度を越した過剰医療が施された症例が自慢話のように掲載、発表されるような状況は、情報拡散の容易な現代ではそうした治療の反社会性を薄めることを助長する(「この学会誌にこの治療方法が奏功したと書いてあるじゃないか!」)