信条を植え付けるもの

人生が空虚に感じられる原因のひとつは、ただ生きることでの自己愛補給がなされないことだろう。生きることがそのまま自己愛の満足につながるには、その人は姿勢に関する信条を持っている必要がある。そしてその信条はたいてい、人との関わりを必要とする。人に親切にする、人に嘘をつかない、人との約束を守る、人を信じる、どれもその満足のためには他者の存在が必要だ。だからナルシシズムから脱却するには引きこもってはいけない。人と関わらなくてはいけない。人との関わりの中で、自分がどのような人間なのかを発見し、健全な自己愛補給の方法を見つける。これがナルシシズムからの脱却に必要なプロセスだ。どんな姿勢を大事にするか、どんな姿勢を信条とする選択肢があるのかを提示するのは養育者の役割だろう。それは刷り込みかもしれないし、背中で示すことかもしれない。「人には親切にするんだよ」「嘘をついてはいけないよ」と常日頃から聞かされたり、人に親切にしたり、約束を守る親の姿を見て、子は自分の中に姿勢に関する信条を内面化していく。それが言葉や態度で示されないとき、そして不健全な結果主義が刷り込まれ、示されるとき、子はナルシシストへの道を進む。業績でしか存在感を示せない父親、家事の質でしか子供に満足を教えられない母親、これらは現代の家庭にありふれている。そんな親から、どうやって子供が健全な信条を内面化できるというのか。彼らは、そういう行動を通して自分の自己愛の不満を補償しようとしているに過ぎない。

親から学べなかった人生の信条を提供するのは、宗教教義かもしれないし、身近にいるすぐれた人物かもしれない。それさえも持たないものは、自分でそれを作り出すほかない。それは大変な作業である。伝統的な宗教の教義は、歴史という試練に耐えて現在まで残っており、その妥当性が保証されている。すぐれた親や身近な人物の持つ信条は、その人がこうした宗教から得てきたものかもしれないし、誰かの伝記から、あるいはその人の親や身近な人物から得たものかもしれない。宗教教義も、自分から選び取るというのは妥当性に欠ける。まだ分別のつかないころに親によって半ば強制的に入信させられることは、宗教を間違わなければ人格形成にプラスにはたらくだろう。分別がつくようになってから自ら選び取った宗教は、余程教義に妥当性がない限りはその者が発達させてきた不健全な自己愛を正当化する手段として用いられてしまうのではないか。古典的宗教教義を理性で内面化するのは難しい作業だ。外から与えられた教義を、大人が心から納得してすんなり受け入れることができるだろうか。納得するには、その教義を守ることで自尊心を高めるある程度の期間が必要だ。その生き方が、それまでの生き方と異なるものであればなおさらだ。親から健全な信条を教わることができなくても、親を反面教師として自分の中に信条をつくることができるだろう。いずれにしても、子は「自分はこういう姿勢を大切にしたい」という意思を人生の早期に持つ必要がある。それを持たなかった者が、生きる姿勢からの満足を得られず、成果主義に飲み込まれて、ナルシシズムに染まっていく。

自分が親から、あるいは身近な人から信条を教われず、健全な宗教教義を示される機会にも恵まれず、人生の中盤までをナルシシズムに飲み込まれて人生の態度的価値を真剣に考える機会を持たなかったとしたら、どうするか。やはり、信条を自分で考えて確立していくしかないだろう。親や身近な者の態度を思い返し、自分が納得できるものを取り込み、不快だったものを反面教師として、自分なりの生き方の姿勢を固めていくほかない。その人が筋を通した生き方をできる期間は限られているかもしれない。だがその期間を一日でも長くすることが、人生に充実感をもたらすだろう。十分に寝る、空腹を解消するような食事をする、感情をありのままに表出する、その上で、自分が大切にする姿勢で生きる。これがナルシシズムに染まらない者の生き方である。