信条の反社会性

親切にしようとすること、人を信じようとすることなど、健全な信条は、他人からその価値観を貶されるような経験をしたとしても、ナルシシストが抱くような自己愛憤怒は生じにくいのではないだろうか?高級車に乗っているひとが、「高級車なんかに乗って、鼻につく奴だ」と言われれたり、髪型に凝っているひとが「なんだその髪型、ダサい」と言われば頭にくるだろう。彼らは各々の抱く幻想を他人の価値観によって壊されている。高級車を乗り回すカッコいい自分、髪型をキメるカッコいい自分は実際には心の中のイメージでしかない。そうして追い求めた幻想の中のイメージは、他者の視点によって容易に崩壊する。高級車に「乗ること」が満足の源ではなく、高級車に乗った自分という絵が作り出す「イメージ」が満足の源なのだ。親切にしようとすること、人を信じようとすること、嘘をつかぬようにすること、社会のルールに従おうとうすることは、いずれも結果ではなく姿勢であり、当人はその「姿勢を取る」こと自体から満足を得ている。他者の姿勢とは異なることはあってもその姿勢自体をイメージのように「否定」することはできない。「人を信じるなんてバカじゃないの?」と言われても、その姿勢によりその人はこれまで人格の一貫性を保ってきたのだから、そう簡単には揺らがない。高級車に乗ってカッコいいかどうかは結局は他者が決めることである。人を信じることが素晴らしいことかどうかは自分が決めることである。もし、人を信じる自分が「カッコ良く見える」から人を信じるようにしているとしたら、その人の信条は姿勢に関するものであってもその結果を求めており、他者に依存した不健全なものである。しかし突き詰めれば、その「姿勢」が褒められたものかどうかは結局はイメージということになる。それが広く是認されるものだからこそ、当人は自信を持ってその姿勢を取れる。姿勢に関する健全な自己愛は、常に自分自身によって評価されることで満たされるが、その姿勢が「本当に格好良いか」を決めるものがあるとしたら、それは社会通念というものかもしれない。高級車を持つことも、有名になることも、現代西洋社会ではいずれも社会的には是とされるが、時代が違えば社会通念上必ずしも全ての人において好ましいこととは考えられないだろう。時代が寛容になったから許されているだけの自己愛の満たし方がたくさんある。自己顕示に関するものはほとんどすべてがその類だ。だが人に親切にしたり、礼儀をわきまえた振る舞いをすることは、基本的にどの時代にあっても良しとされるものである。時代に非依存的な道徳にしたがった姿勢だけが、健全な自己愛を形成しうる。健全な自己愛の元となる姿勢を批判されても「そうかなあ?批判する方が道徳に反していると思う」となるし、ナルシシズムに染まらない人が不健全な自己愛を批判されたら、「確かにそういう見方もある」という考え方をするだろう。不健全な自己愛であっても、結果の評価を自分に大きく依存している人は、他者からの批判に対して動じない。そのように自分で守りやすい自己愛というのは、大抵反社会性が低い。自己愛が反社会性を帯びるにつれ、幻想性は高くなり、他者からの批判も強くなり、自己愛がサイコパシックなものともなれば社会的な制裁を受けるに至る。

自己愛の2つの軸、他者依存性と反社会性は、独立しているようで相関がある。社会とはすなわち他者であり、反社会性とは「他者からの承認」を含む概念である。他者に害を及ぼす行為は当然社会からの承認を得にくい。他者依存的なものは、多かれ少なかれ反社会的なのだ。現代、とくに日本では、かつてあった「同調」というものに害をなすという意味で、多くの自己顕示的な行動、自己中心的な行動、いわゆる「出る杭」が他者への害とみなされ、社会から承認を得にくかった。同調主義自体が「皆が同じように振る舞うべき」という集団幻想とも言えるが、その崩壊は自己顕示的な行動、自己中心的な行動によるナルシシズムの満足を許すことになった。ひとつのナルシシズムの崩壊が新たなナルシシズムを生んだと言える。「日本人の同調性」という集団幻想が崩れた結果、多くの個人的行動や考え方が反社会性のラベルを剥がされ、単に「他者依存的なもの」としてアクセス可能になった。「他者の価値観に寛容になるべき」という風潮が、こうした新しい自己愛満足を個々の人間が見出すことに拍車をかけている。そこでは、基本的自己愛を満たし、古くからある道徳的価値観を守って生きることの難しい人たちが、自分なりの自己愛補給を求めて不健全な方法での自己愛満足の手段を漁るようになる。そのような社会では、身分制度の崩壊、一億総中流化の傾向が「機会均等」という新たな幻想の下に諦めの精神を学ぶことを難しくし、人々は際限ない個人的幻想を抱いてナルシシズムを深化させていく。

なぜ人々は、古くからの道徳的価値観だけを守って自己愛を補給していくことができないのだろうか?不健全な自己愛満足は、基本的自己愛の満足が得られないことによる代償というのが私の考えだ。現代の先進国では生きるために睡眠時間を削って働く必要も、飢餓にも悩まされることもない。必要な睡眠時間は取ろうと思えば取れ、空腹を満たすだけの食事なら経済的に不可能なことはなくなった。それでも人々が不健全な自己愛満足に耽るのは、経済至上主義が家庭から感情を喪失させていることが原因だろうか?経済至上主義が睡眠時間を削り、空腹の満足としての食事を奪うからだろうか?現代の「仕事」は、本来担うべき衣食住の満足や仲間との情緒の交換という役割を失い、単なる不健全な自己愛満足の手段の一つに成り下がっている。我々は十分に眠らなくてはならない。眠気は満足を得るための最も大切なシグナルである。そして空腹に反応して、満腹になることを目的とせずに食べなくてはならない。空腹を無視することは健全な自己愛満足を得る機会の逸失である。また我々は、感情を養育者に汲んでもらい、自分の感情を学習する必要がある。そして自分の感じるように表現することが許される場を提供してもらう必要がある。それが将来的にも他者との本当の情緒の交換を可能にする。これらのことができる人には、健全な自己愛満足以上のものを求める必要がない。