他人に求めることと、自分が行うこと

他人に対する不満や愚痴というのは、自分が正しいと思う信条にしたがって他人も行動するべきだという思いの表れである。そこには自己の幻想に他人を巻き込もうとする力が働いている。幼い子供がいる家族内のルールのように、ルールが当然として受け止められてしまう場合もあれば、職場のルールのように、自立したそれぞれの者が不満を抱きながらもルールにしたがって動くことで組織が円滑にまわる場合もある。家庭内では、子供はやがて自身の価値観を確立していき、親との共同幻想から脱却していく。この幻想から脱却できない者が社会に出ると、相変わらず他者と共同幻想を形成可能だと考えてしまう。反抗期を経験しなかった者がやがてナルシシストとなって人間関係の構築に失敗するのはこうした原因による。彼らは、他人は自分と同じルールに従う存在、思い通りに操作できる存在という考えを引きずっている。職場などでは、ナルシシスティックな煽動家の周囲に、同一化により集団幻想を形成するナルシシスティックな信奉者と、自他を区別しながらときに不満を持ちつつも協力する健全な協力者とが集まる。前者は後者よりも柔軟性に乏しい一方で、目標を達成しようとするエネルギーは大きく、困難な障害をも乗り越えていく力がある。

他人が自分の思い通りに動くことで満足を得るのは操作的欲求の充足、すなわちナルシシズムの満足ということになる。本来の健全な自己愛満足は、「他人にこう動いて欲しい」という欲求のもととなる信条、すなわち「自分はこのように動くことを正しいと信じている」という自分の価値観に基づく信条に対し、それを他者ではなく自身で実行する(しようとする)ことにより満たされる自己愛のことであろう。自分の皿は自分で洗って欲しい、他人に離席時にログアウトしてほしいと感じるのであれば、まず自分が自分の皿を洗い、離席時にログアウトすることで自分の姿勢を一貫させる。そこまでで本来は健全な自己愛満足が生じているはずである。その上で、周囲に各自の皿を洗ったり離席時にログアウトしたりするよう「提言」するところまでは構わないが、それが思い通りに叶えられないことで不満を感じるようならその人はナルシシスティックになっている。子供に食事をおいしいと言ってほしいと思うことは自由であるが、子供がおいしいと実際に言ってくれないことに腹を立てるのはナルシシストの所業である。日常生活で自身が不満を抱くとき、彼らは現実に対して自分の幻想的世界観からの逸脱を感じている。だが本来その世界観は自分の実践する姿勢だけで完結すべきもので、世界観が結果として実現されることを目的とすべきではない。そのような世界観が高潔なものであるならば自身がその信念に沿った行動を一貫して取ることで、自分の中に一貫性を持つ人格を感じることができる。ただし、その信念/行動原理というものは、基本的自己愛である身体シグナルを無視してまで満たされる、すなわち実践されるものであってはならない。実践することは信念をもつことの必要条件ではない。逆に言えば、現実的な地道な努力や姿勢というのは、身体シグナルに従える範囲でしか行えないものであり、その単位時間あたりの量には大きな制約がある。このように考えると、健全な努力やナルシシスティックな努力というものにもその程度を見て取ることができる。健全な努力にも、基本的自己愛を徹底的に優先するものから、最低限の基本的自己愛を充足するものまであり、前者よりも後者のほうが業績や成果には繋がりやすいと思われる。一方、ナルシシスティックな努力にも、多少空腹を無視したり、少し睡眠を削るようなものから、食事、睡眠から他者との関係に至るまでを徹底的にコントロールしようとして自己を破壊し、多大な成果を追い求めるものまでさまざまな程度があるだろう。健全な努力のうち、基本的な自己愛を最低限満たす程度のものが、時間をかけたときに大きな成果を上げるような努力ということになる。

ナルシシズムから脱却した状態というのは、基本的自己愛をしっかりと守る姿勢が確立した生き方ができる状態と言えるだろう。眠くなったら寝る、腹が減ったら食べる、そして心の声に素直でいられる。そのような状態では腹八分目は自然と実践されるだろうし、そのほかの代償満足に走ることもなくなる。前二者は意識さえできれば人生の後半になっても方針の転換が比較的容易だが、心の声を聴く能力は養育過程で親からの援助が不可欠なものであり、失感情的になってしまったナルシシストには難しい部分である。誰かに自分の感情を教えてもらうという「再教育」を経験することが彼らには必要なのだ。