自己愛の依存性、反社会性

かつては「女性として企業で出世したい」「40歳を過ぎても子供を持ちたい」「男性でも女性として生きたい」といった考えは、社会通念と相容れない、そしてそれは検討の余地もない考え方であった。つまり反社会的な自己愛と考えられていた。そうした自己愛を持つ側は、社会の「常識的」世界観を法で規定される間でもなく受け入れていた。女は男よりも社会進出の機会に恵まれないのが当然として生き、同性愛者は肩身の狭い思いを甘んじて受け入れていた。時代が移り、それらの考え方は必ずしも反社会的ではなくなり、科学技術等の進歩も相まって一部は「常識的」という地位にまで押し上げられた。男性が女性として生きたいという希望は、旧来の社会であればどうしても諦めなくてはならない事柄だった。医療の進歩が、こうした「姿勢」を諦めなくてもよいものに変えてしまった。

こうした自己愛のもち方は、ある「結果」や他者の「受容」をもって初めて満足が達成される。女性が出世したいと「思う」だけ、40歳を過ぎても出産したいと「思う」だけ、男性が女性として生きたいと「思う」だけではいずれも満足は得られない。それらが実現し、周囲がそれを受容の目で見ることができて初めて彼らは満足するだろう。そうした意味で、これらは「親切でありたい」「自分に素直でありたい」といった態度的価値とは本質的に異なる、他者あるいは結果に依存的な、ナルシシスティックな自己愛なのだ。周囲の受容という意味では、時間をかけて非常識が常識になる余地があるだろう。つまり常識的世界観との衝突がみられても、世界観のほうに妥当性がなくなってきている可能性もある。だがその問題がクリアされても、こうした自己愛は結果が叶えられなければ満足を得ることができない。つまり結果への執着(結局は他者への依存)という意味ではナルシシスティックな域を出ない。

今までは想定していなかった、旧来の社会における「反社会的かつ他者依存的な自尊心」というものがここへ来て急速にその反社会的性格を弱め、他者依存的自尊心の地位を獲得しつつある。技術の不在ゆえに社会的には非常識とされた考え方が、技術の進歩により現実味を帯び、想定可能な自己愛のもち方として台頭してきた。だがそれらは共通して、ある目的を技術により「達成する」ことではじめて満足するという性質を備えており、他者依存的であり決して健全な自尊心にはなり得ない。旧来の法は、「殺すなかれ」「盗むなかれ」といった、個人の姿勢でのみ達成可能かつ反社会性の極めて高い自己愛の満足を「禁じて」いたが、現代では「〇〇の権利」という形で依存的自己愛を「保証する」法が目立つ。法が人々に、「こういう考え方を認めよ」と互いに依存的になることを奨励しているのだ。女性が男性と同等の社会的地位を有したいと考えること、生殖機能を失いつつある女性が子を産みたいと考えること、男性が女性になりたいと考えること、有色人種を差別してほしくないと考えること、いずれも他者依存的である。その中には大多数の現代人が「当然だ」と考えるものもあれば、「幻想だ」と考えるものもあるだろう。だがその線引きは実に曖昧で、科学技術の発達がその境界線を容易に動かしてしまう。「幻想」は徐々に「当然」に置き換わり、かつて深刻なナルシシズムと見做されたものはその程度を弱めていく。大昔であれば、近視による視力低下を抱える者がクリアな視界を得たいと考えることは幻想だっただろう。だが今日、多くの人が眼鏡やコンタクトレンズを当然のように使いながら生活し、それを社会は完全に受け入れている。「月に行ってみたい」というかつての幻想は科学技術により現実となったが、「一市民として旅行感覚で月に行きたい」という考えはまだ半ば幻想である。「殺すこと」「盗むこと」といった他者に直接的な危害の加わる「非人道的な」一部の姿勢・行動を除いては、その是非は相対的なものである。ただし「殺されること」すら仕方のないことと諦めることができた時代がつい最近まで存在してもいた。