イメージの追求

ナルシシストは眼の前の人間関係を犠牲にして自己イメージへと近づくための努力をする。自己イメージに囚われるあまり、自分の身体からのメッセージを無視することを繰り返し、そのうちにメッセージを聞く耳を失ってしまう。恋人の前で、クールで聡明なファサードを維持しようと必死になり、恋人との温かい心の交流からは遠ざかった関わり方になってしまう。本人も良い関係を構築したくてそうしているのだけれども、その関わり方は本質的に誤っている。親子関係にしても全く同じことで、真面目で貞操観念のあるファサード、家事を完璧にこなすファサードにこだわるあまり、子供の感情を汲み取るような内面的な情緒の交換が行われなくなってしまう。そのような関係に置かれて育った子供は、情緒的な交流とはどういうものなのかを知らずに育ち、イメージに沿った生き方こそが自分が受け入れられる方法なのだと学習する。だが彼らは、自分の限界が少しずつ見え、もはやイメージの追求が困難となる人生の後半において充実感を得ることが次第に難しくなってしまう。そしてその頃には、かつて自分にイメージの追求こそが是と教えた自分の親が、荒廃した晩年を送っているのを目にして愕然とするのである。

イメージの追求が人生の習慣となってしまった者がそこから抜け出すにはどうしたらよいのか。まずは身体からのメッセージを少しずつでも聞けるようになることではないか。空腹や眠気、さらには便意といったものに素直に反応していくことが大切だろう。ナルシシストは眠気を無視して仕事をすることで不眠になり、空腹に関係なく満腹を指向して食べることで肥満し、あるいは空腹を無視して痩せたイメージを追求して拒食傾向となり、清潔で安心できる環境でないと排泄できず便秘になる。こうしたことに加えて、一番の課題となるのは真の悲しみの体験だろう。クールで聡明なファサードから最も遠いところにある感情である寂しさや悲しみを深く感じ、泣くことができて初めて、ナルシシズムは克服されたと言えるだろう。

ナルシシズムをもたない人は、理想を追求するための個別の取り組みの最中でも、心の交流が必要な場面ではそれをためらいなく脇へ置く。あるいは取り組みそのものを諦めることができる。そういう生き方こそが彼らが大切にする姿勢だからである。ナルシシストは理想の追求と獲得こそが人生の第一優先事項であるから、大切なひとが困っているときでもそれを擲つことができない。子供が悩みを抱えて本当は話を聞いて欲しいときでも、上質な食事を作ることでしか子供に奉仕できない。相手にどの程度寄り添うことができるのかも、その人のナルシシズムの程度によって異なる。ナルシシストは自分に抱くイメージの範囲内でしか人と関わることができない。お祭り騒ぎの席で、自由な心で踊ることができないのはイメージにとらわれているからである。彼らは演劇や学芸会など強制的な舞台を整えられないと自分のイメージから踏み出すことができない。自分に関しての幻想的イメージを持たない人は、求めに応じて如何様にも振る舞うこと、相手に関わることができる。だがナルシシストも、心の底では皆と同じようにお祭り騒ぎに興じたい、イメージに囚われずに人と関わりたいと思っている。だがイメージへの囚われはそれをどうしても困難にする。

なぜ彼らは「クールでありたい」というイメージを追求するのか?それは第三者的にみて必ずしも快い姿勢ではない。「親切でありたい」という姿勢と対比しても、「クールでありたい」という姿勢そのものは自分の中に快を生み出すとは言えず、むしろ自分を解放できないことに不満を抱かせることすらある。やはり「クールでありたい」というのはそれ自体が目的ではなく、その姿勢の背後にクールであることで周囲から好かれたいという他者依存的な幻想があるように思える。おちゃらけた雰囲気を良しとしない価値観、それはおそらく育った家庭に起因するものだろう。人間は過去からは自由になれない。人間は過去の奴隷なのである。