過度な親切、操作性

求められたら応じ、結果に頓着しない。何かを大きく変えようとする改革の精神は相手の行動変容、現状変更を目的としており、健全な自己愛のあり方とは本質的に相容れない。

相手が喜ぶと思うことを為し、返礼を期待しない。教育とは自分のポリシーに従って相手に伝えることではあるが、相手の行動変容は相手のなすがままにしておく。一対一で相手が変わらないのなら相手に問題があるのかもしれないし、一対多で大多数が変わらないなら変えようとする側の方法に問題があるのだろう。相手への過剰な親切やプレゼントは、何らかの返礼を期して為されることがほとんどではなかろうか。返礼は、感謝の言葉であったり、相手が結果を出すことであったりする。簡単な、適度な親切を、何ら見返りを欲する心なく行うことが隣人愛と言えるだろう。逆に、何ら見返りを欲する心なく行われる親切というのは、自ずと適切な程度の親切にとどまる。

ナルシシズムの深刻な人は、操作性、返報性の世界を生きることがあまりにも当然になってしまっている。だから彼らは、何でもない簡単な親切の中にも操作性や返報性をみてしまい、見返りを期待しない自然な隣人愛を施すことが困難になっている。彼らはほんとうの意味での愛に触れたことがない。

食事を作ってもらうことを当たり前と感じることができた人は、他人に食事を当たり前に作ってあげることができる。食事を作ることに対し「恩を売られている」と感じてきた人が、食事を作ってあげることにも返報を期待してしまうのは仕方がないことだ。世話されることを当たり前に感じながら生きてこられた人は他人を当たり前に世話することができる。世話されることを当たり前と感じられないのはなぜか?それは世話されることは当たり前でないと感じさせる周囲の言動である。世話を施す立場の者が感謝を要求すること、感謝を期待することの最大の弊害がここにある。

ナルシシストが自分の性質に気がついたとき、他者へ親切にできなくなるのは、操作欲求を伴わない自然な親切というものを知らないからだろう。彼らはどんな小さな親切にも操作欲求を伴わせているから、いざ操作的でなく振る舞おうとすると、いかなる種類の親切もできなくなってしまう。彼らは親切な姿勢そのものから満足を得ることができない。