衣食住の満足水準

子供の感情を無視してでも、子供にひもじい思いはさせない、子供が世間から立派に見えるようにする。これが現代の親に共通した態度ではないか。そしてそのように育てられた者は、パートナーや子供に対してそのような振る舞いを再生産する。本当に求められているのは、たとえひもじい思いをさせても、たとえ世間体が悪くなろうとも、子供の感情を理解して寄り添うことを優先する親の姿勢なのだ。食事を作る時間やお金がなくても、カップラーメンを食べながら子供の話に耳を傾ける、子供が辛そうにしていたら、学校を休ませてでも子供の話に耳を傾ける。こういう姿勢こそが子供の情緒的発達に貢献するのではないか。衣食住の満足は、それが満たされるに越したことはないが、情緒の成熟とは別の次元の話なのだ。現代は衣食住の最低限の満足がより容易になっているにも関わらず、注力されるべき子供の感情への配慮がより疎かになっている。それはやはり衣食住の水準が高まるにつれて、他者との競争が意識され、「他の子の家よりもしっかりやらなければ」という圧力から、本来ならずっと簡単にできるはずの衣食住の満足が却って容易ではなくなっているということだろう。「ケンちゃんのお母さんのほうが料理上手いや」と言えるのが心理的に健康な子供なのであって、母親の料理の腕など、子供の心の健康には本質的に不要なのだ。衣食住を一定水準を大きく超えて満足させたいという欲求は、所詮は親のナルシシズムの現れでしかない。子供はお腹が空いたときにそれが最低限満たされればそれで良いのだ。子供のお腹を満たすことが、それ以外のより重要な自己愛満足を提供できないことの言い訳として用いられている。子供が過食や過度な競争による満足を求めるとき、その子はもっと基本的な自己愛欲求、すなわち感情面での自己愛欲求が満たされていないのではないだろうか。経済的に余裕を持つことは、衣食住の満足を容易にする。その結果、本来ならより多くの時間と心のエネルギーを情緒的交流に割くことができるはずなのに、人は経済的に余裕を持つことそのものを目的と考えてしまい、本来の目的を見失ってしまう。