自尊心、自己愛、ナルシシズム

私は自尊心とプライドをほぼ同義として用いる。自尊心が高まるというのは一般的な言い回しだが、ここからはこれが「自己愛が満たされる」あるいは単に「満たされる」という表現に変わっていく。自尊心が高まることは自己愛が満たされることであり、自尊心の傷つきは即ち自己愛の傷つき、プライドの傷つき、そしてナルシシズムの傷つきと同義である。ナルシシズムとは、簡単に言えば自己愛のうち病的なものであり、それは個人の抱く幻想や世界観と深く関係しており、その意味するところは文章の中で徐々に読者にも明確になっていくだろう。

自尊心を持つとは、自己愛が満たされるような「こだわり」を持つことだと言える。こだわりとはすなわちその人が大切にしている「信念」とも言いかえられる。信念というと聞こえが良いが、「思い込み」や「幻想」とも表現できる。そうした信念には、比較的健全なものから不健全なものまで様々なものが存在し、絶対的に正しいというものは(ほとんど)ない。

ある人の自尊心の健全さを考えるとき、二つの側面からそれを検討することができる。一つは、その行動がもたらす周囲への利益と不利益。「他人に親切にする」「嘘をつかない」といったものは、実行したところで周囲を不快にすることは稀で、多くの場面で利益をもたらす。こうした信念は概ね万人に受け入れられる比較的「健全な」ものと言える。一方「自分は他人に優先される」「自分の話は常に周囲に注目を持って受け入れられる」「自分の仕事は人に喜ばれる」といった信念(思い込み)は、周囲との衝突が必至で、ほとんどの場面で悪影響をもたらす。また「毎朝納豆を食べる」「夕食の前に風呂に入る」といった信念も想定可能で、こうした信念は例えば独り暮らしであれば周囲への不利益、周囲との衝突は少ないが、他者と共同生活をしているような場合には衝突をもたらす可能性が高く、その人の置かれた状況に応じて周囲への不利益の程度も変わる。

もう一つの尺度は、その自己愛の満足/不満足が自分の行動のみに依存しているか、あるいは他人の考えや行動に依存しているかという見方だ。自分の行動にのみ依存した自己愛の満たし方のほうが自分でコントロールし易く、他人に振り回されないという意味で「健全」なものということになる。この見方で言うと、たとえば「人に親切にする」「嘘をつかない」というのは他者に依存しない信念、「自分は他人に優先される」「自分の話は常に周囲に注目を持って受け入れられる」「人に喜んでもらう」といったものは他者に大きく依存した信念ということになり、前者のほうが健全である。また「朝ごはんに納豆を食べる」「夕飯の前に風呂に入る」といった信念は、独り暮らしであれば他者にほぼ依存しない信念となるが、共同生活ではそうした信念も周囲の承認を必要とするという意味で他者に依存することになる。

これら二つの側面から検討し、その双方をパスした、すなわち「周囲に利益をもたらし、満足について他者依存性が非常に小さいもの」が真に健全な自尊心ということになる。

「教育は暴力を用いて行う」というような信念を考てみる。まず、自己愛の満たされ方を明確にする必要がある。暴力を用いることに自己愛の満足を見出し、教育が成果を上げたかには関心がないとすれば、この信念は周囲に悪影響をもたらすが他者に依存しないものである。彼らは教育という正義を盾にして自己愛を不健全な方法で満たそうとしている。一方、教育の成果が上がることで自己愛が満たされるなら、この信念は周囲に悪影響をもたらし教育される側の変化にも大きく依存した信念であり、先に述べたどちらの面からもこのような信念は不健全ということになる。暴力愛好者にみるような「他人への依存度は低いが、周囲への悪影響は大きい信念」は、犯罪や相手のネガティブな反応から快楽を得ているサイコパスの行動などがそれを体現している。この「正義の仮面を被った不健全な自己愛満足」は、サイコパスや反社会的行動に限らず広くみられる。「あなたのため」と言って行われる折檻、「教育」という名の下遅くまで行われる残業など、普通の社会にこの構図はごく一般的にありふれている。

先ほどは周囲への影響と他者依存性を分けて述べたが、「周囲に悪影響がある」ということ自体が、依存性の観点では「社会」という他者からの承認を得られていないと考えることもできる。本人が他者からの承認を意に介さず快感を得ているとすれば、反社会的であっても自己愛の満足の仕方としては健全なものであるが、社会からの承認性を健全性の前提とするならば、このような反社会的信念は不健全である。他方、「他者に親切にする」という信念のように、社会からの承認性が極めて高くても、それが当人に快感をもたらさなければそれは自己愛満足手段として機能しない。「社会からの承認があるか」と「自分が快感を得られるか=自己愛が満足されるか」は全く別物である。その人の快感を得る手段が、社会から広く承認を得ている道徳的教義に一致している場合、その人は健全な形で自己愛を満たせている。親切にされた経験のある人は、それがもたらす心地よさを知っているから、他者にそのように振る舞おうとすることに自信を持って満足できる。反社会的な自己愛の満たし方を含め、他者依存的な自己愛の満たし方は、いずれも人間の温かさを経験したことがない人が発達させる自己愛満足のように思える。人の温かさに触れたことのない人は、いくら道徳教義を説かれても他者に本当の意味で温かく接することはできないだろう。そうした者が人の温かさを学ぶには、やはり他者との交流が不可欠なのである。

繰り返しになるが、真に健全な自尊心とは、「それを守り高めるために他人の行動に依存する必要性が小さく、またそれを守り高めようとしても周囲に悪影響の小さいもの」ということになる。「他人に親切にする」「友達へのあいさつを欠かさない」といった信念はは極めて健全な信念ということができるだろう。

注意すべきなのは、こうした健全な自己愛の満たし方も、その行動をすることそのもので自尊心が高まるのならよいが、一歩間違うとその満足の基準が「他人の反応」に依存してしまいかねないということだ。他人に親切にしても、相手がつっけんどんな反応をしたり、挨拶をしたのに無視されたりしたとき、それによってその人の心に負の感情が引き起こされるようなら要注意ということになる。そういう人は、「他人に親切にする」ことで自己愛が満たされているのではなく、本当は「他人に親切にした結果相手から感謝される」ことで自己愛を満たしている。心理的に健康な人、すなわち他人に親切にすることで自己愛が満たされる人なら、相手からのネガティブな反応に「びっくり」することはあっても「ムカつく」ことはない。不満というのは常に、自分の自己愛が満たされないことで引き起こされる。

上で考察したように、サイコパシックなものを除けば、不健全な自己愛の満たし方は他人への依存度が大きい。それゆえ、不健全な自己愛というものは、すべからく当人の幻想の中で成立している。それは他人が自分の自己愛を満たすように、つまり自分の思い通りに行動するという幻想である。それゆえ、ナルシシストは現実を生きていないと言われるのだ。「他人、そして世界はこうあるべき」という自分の幻想を現実に一致させようとするエネルギーは強烈で、ときに理想という名のもとに社会変革をもたらす。その幻想が客観的にも受け入れられるものであれば、周囲に好意的な変化として受け入れられることもあり、それを世の中では「業績」と呼ぶ。病院診療の改革に乗り出す教育的医師のエネルギッシュな教育活動などはその好例だ。一方で、自分の行動にのみ依存した健全な自己愛は現実の中で成立する。彼らは他者を動かすことには重きを置かないから、自分から進んで意見を表明することもない。彼らは求められたときのみ、慎ましく自説を述べるにとどまる。

「私は〇〇にプライドを持っている」という言葉を聞いたとき、先の2つの尺度に照らしてその中身を検証することができる。

「私は大企業の役員だ」というプライドは、「大企業の役員」という事実に関連してはいるが、実は「大企業の役員なのだから有能なエリートであり、能力も優れているし、他人からも一目置かれるはずだ」という幻想に基づいている。相手にそのような扱いを受けずに普通の人として扱われたり、仕事上の自分の無能ぶりを露呈するような出来事に遭遇したりすることでその幻想は打ち砕かれ、恥の感情、自己愛憤怒を生じる。

「離席するときはログアウトして欲しい」というのも、満足を他人に依存した信念=要求である。このような種類の信条は、その達成が相手の行動に完全に左右されるため、その欲求が満たされないことによる怒りの感情が惹起されることが必然なのだが、こうした要求の場合、表面上は社会通念に照らしても正論が述べられているため、主張が社会正義という仮面を被って正当化されやすいので要注意である。つまり怒りが正当化されてしまう。体罰というのもこの類である。「教育」という社会通念上の正論をかかげることで、「罰」という怒りの発露としての行動が正当化されてしまうのだ。ナルシシズム(=不健全な自己愛)の満足のために社会正義や正論、うわべの愛といったものが引き合いに出されることがしばしばある。「あなたのためを思って指導しているのだ」というのは結局のところ、自分の幻想に現実を一致させようとする努力に過ぎない。「あなたを私の幻想の中に引きずり込むために指導しているのだ」というわけである。自他の区別がついていれば、他人の行動やその結果をコントロールすることは所詮できないということが分かっているはずで、そうであれば相手へのアドバイスや指導、意見は結果を求めるものではなく、いわば「言いっ放し」の状態にとどまるのが健全なのである。表明することはある程度個人の自由で行って良いが、その結果として周囲の行動が変わるか否かに過度な関心を抱いてはいけない。結果への過度な関心は「とらわれ」となってその人のナルシシズムを形成し、それが叶えられないことによる自己愛憤怒を生む。先の例で言えば、「離席するときはログアウトするべきだ」と考えるのであれば、その信念通りに自分が行動するところまででよく、それにより自己愛が満足される状態は健全だが、周囲にその信念を共有しようとして他人に行動や結果を強要することはナルシシズムの為すところである。こうしたナルシシズムは、「他人は自分と同じような思考をもち、自分と同じように行動するはずだ」という自他を同一視した心理状態、幻想により生み出されると言える。つまりそういう人は自他の区別がついていないのだ。

「自分がこうありたい」という願望があるときにも、他人を巻き込まずに、つまり他人の行動に依存せずにその状態にたどり着くことは、願望の種類によっては簡単ではない。「モテたい」「偉くなりたい」「東大に行きたい」「あの人と仲良くなりたい」「愛されたい」といったものはすべて自分以外の人間の行動に依存した目標であり、ナルシシズムを生み出す。「親切な人間でありたい」「誠実な人間でありたい」「自分の感情に素直でありたい」といった「あること」は、他人の行動に関わらず達成可能なものであり、いずれも健全な自己愛の満たし方である。それらはそれ自体が何ら社会的業績を生むものではない。しかしこれらの性質を備えた人間は、名声や評価といったものが集まりやすい傾向を生むことも事実だろう。前者のような他者に依存した不健全な自己愛満足の方法は、後者のような健全な自己愛満足の方法を許されなかった者が作り出す、偽りの代償的な方法なのかもしれない。心理的に健康な者が内なる興味に従って物事に取り組んだとき、業績は目的ではなく自ずとついてくるものなのだ。

※「他人に不親切にする」「他人を困らせる」といった類の信念は、その姿勢から当人が満足を得ているとすれば他者に満足を依存しないが、相手の不快感を引き起こすという意味で自己中心的で「不健全」な信念と言える。他方「(生物学的な)男性が女性として振る舞う」というようなものは、ジェンダーレストイレの問題のように社会的な場面にもよるが、周囲への影響という意味では比較的中性的であろう。また「他人に無関心でいる」「他人にクールに振る舞う」「お調子者として振る舞う」というようなものも一つの信念として想定可能だが、のちに述べるようにこれらはその人が抱く自己イメージに基づいている可能性が高い。彼らはクールに振る舞うことそのものから満足を感じているわけではなく、周囲からよく見られるため、承認を得るのに適した主観的なイメージ=幻想に近づくための手段としてクールに振る舞うことが必要だと感じており、それ自体が目的ではない。彼らは理想イメージに近づくためであれば、今まで用いてきたその手段をやすやすと捨て去るだろう。このように自己愛の2軸を一本化する考察は、頁を改めて行う。