自分がかくあること、世界がかくあること

人の欲求は「自分がこうありたい」「世界がこうあってほしい」の2種類に大別される。間違いやすいのは、頭が良くなりたい、スリムになりたい、といった自分に関する欲求であっても、実は後者の欲求に属するということ。自分の体というのは、自分のコントロール下にあるように思えて、実は完全には自分のコントロール下にはない。その意味では自分の体というのも「他者」あるいは「世界」に属するものなのだ。だからこそ「コントロールできる」という幻想を生み出しやすいし、またその幻想が破られることにも繋がる。病気がナルシシズムの傷つきを生むのもこのためである。健康であることは今日が晴れていることと相似な現象であって、自分が意図的にコントロールした結果ではない。筋力トレーニング、ある種の予防的医療など、能動的にある程度の効果をもたらすものが存在することは、却って「コントロール可能な肉体」という幻想を生み出しやすくする。もともと自分の肉体についてコントロールできることなどなく、ごく一部の事象に関してはコントロールが部分的に可能なのだという認識が重要である。

では他方、「自分がこうありたい」という欲求はどんなものか?それは自分の「態度的価値」につながる欲求だろう。それは結果ではなくそこへ向かう姿勢であり、それこそがその人の人格を形成する。その姿勢、心のあり方が一貫していることが、人格に同一性を与え、人生を空虚感から守ってくれるのだと思う。東大に入ることよりも地道に勉強を積み重ねること、筋骨隆々になることよりも継続的にトレーニングに取り組もうとすること、実際に親切な人間になることよりも親切な人間であろうとすること。これら3つの例で言えば、後者ほどその姿勢や心のあり方が結果に近づきやすく、親切であろうとすることと親切な人であることは限りなく同義に近い。このようにスペクトラムで考えると、人の自己愛欲求は、心のあり方が結果に結びつく度合いの強弱で見ることができる。この度合いが最も弱いのが他者に関すること、次に弱いのが自分の肉体(と一部精神)に関すること、そして最も結びつきの強いのが自分の態度や心の姿勢に関することとなる。心の姿勢についてさえも、その結果に注目するならば完全なコントロールは望めない。「こうなりたい(結果)」ではなく「こうありたい(態度)」という目標設定をし、それを満足させることで健全に自尊心が高められる(=自己愛が満たされる)のである。極端な話、「他人に冷たく接したい」という信念で生きることは、ほんとうに冷たくすることから満足感を得ているのなら、ややサイコパシックではあるが理屈の上では自尊心の高め方としては健全なものなのだ。ただし人間の本性としては、冷たくすることで満足するというのはありえないことで、そのような人は「冷たくクールなイメージ」にとらわれて行動しているナルシシストと思われる。