自他の区別と批判的精神

批判的であることは多くは不満の表れである。他人の行動をあげつらって、「常識」や「社会正義」の名の下に是正すべきだと非難する。他者の行いについて、個人の好き嫌いを表明することには問題はない。だがそれを「変更」しようとすることは他者をコントロールしようとすることであり、不健全な自己愛的行為である。「私はあの行為を良いとは思わない」→「あの行為は禁止されるべき」という思考回路ではなく、「私はあの行為を良いとは思わない/嫌悪する」→「私自身はああいった行為を行わないようにする」というのが健全な思考回路と言える。そうすれば、自分の自己愛的世界観に沿わない他者の行為というのは、不満の種ではなく、現実の事象に過ぎなくなる。職場に中身の入ったペットボトルが放置されていた場合、それを快く思わないのは一つの価値観である。快く思わない人は、自分では同じことをしない。不健全な自己愛を持つ人は、それを声高に注意するなどして現状変更を試みる。成熟していない人は自分の実行している行動を他人にも行わせようと操作的になる。「背中で教える」というのは、相手が自分と同じ価値観を持ちたいと考えるだろうという同一化を前提とした教育方式である。背中で教える人が、教わる人に変化を期待しているならそれはナルシシズムであり、言外の指導的教育と言える。自己愛の観点からは、背中で教える側は教わる側の変化を期待しないというのが健全なのだが、それは果たして今日良しとされる「教育」とみなされるだろうか。学校でも家庭でも、教師や親が「背中で教える」時代は終わり、不健全な自己愛に基づいた教育こそが求められる時代になってしまったのだろうか。

自己愛が非常に不健全な人は批判が多いだけでなく行動で現状変更を試みる。もう少し健全な人はただ愚痴が多く行動は伴わない。平均的な人間というのは愚痴を言う程度の不健全さは備えているだろう。自己愛がもっと健全な人はただあるがままを見る。面白いのは、自己愛の不健全な人間のほうが社会的に見ると「活動的で立派な人」という評価を得る機会にも恵まれやすいということだ。社会的業績というのは自己愛の健全さとは反比例するのかもしれない。便利さは不満に基づく現実改変の産物である。現代において便利さが加速度的に高まっているのは、テクノロジーの進歩もさることながら、それを推し進め、使いこなす現代人の自己愛の持ち方がますます不健全になっていることの表れなのかもしれない。