病院は患者と医師のナルシシズムがぶつかり合う場所

患者には「このような病気のはずだ」「このように治療して欲しい」「患者としてこのような扱いを受けたい」といった様々なナルシシズムが混在している。同様に医師にも「この病気はこのように治療されるべき」「医師としてこのように扱われたい」「患者にはこのように反応してほしい」といったナルシシズムを持っている。これが相反するとき、患者−医師関係は緊張する。

まず患者側については、「このような病気のはずだ」「このように治療して欲しい」という幻想はまず現実とはならない。このようなナルシシズムには濃淡があるが、その程度がきわめて強い患者は多くはなく、一部のクレーマーと呼ばれる患者に共通に見られる特徴と言える。しかしより軽度なもの、たとえば「こういう薬を処方して欲しい」といった要求も、自分の想像や期待に医療が答えてくれるという幻想に基づくナルシシズムであり、これは要求の程度や薬の種類にもよるが実現されることも多い。だが患者には、たとえば抗菌薬とより害の少ない整腸剤といった薬の区別はつかないため、抗菌薬の処方を一方的に要求するといった医者泣かせの患者が出てくる。「薬には患者の要求にある程度応えて処方してよいものと、そういう性質ではないものがある」という本質を双方が共有しているのが本来は望ましい。ドクターショッピング、セカンドオピニオン、民間療法など、どれも患者のナルシシズムが医師のそれとぶつかった結果生まれてくる解決策と言える。「患者としてこのような扱いを受けたい」というのも、近年の行き過ぎた消費者第一主義によって助長されがちなナルシシズムである。もともとは病院というのは、患者の名前が公共の場で声高にアナウンスされ、あちこちで案内もないまま長く待たされ、入院ともなればみすぼらしい病衣を着せられて食べたいものも食べられず、患者の自尊心が次々と傷つけられる場所だったのだが、近年のおもてなし精神はそうした自己愛の傷つきに耐える力を患者から奪ってしまったように思える。より正確には、力を奪ったというより、おもてなし精神により患者が社会から持つことを許される自己愛の水準が大幅に引き上げられたのだ。そしてそれに慣れた患者=消費者が、自己愛の傷つきに耐える力を弱めてしまった。その結果、相手に想定する自己愛水準が過去とさほど変わっていない病院のような場所(サービスを受ける側=お客様、という観念の比較的薄い場所)では、これまでと同様な扱いに対してサービスを受ける側の人間が耐えられなくなっている。「サービスを受ける側=お客様」という図式が成立する領域においても、自己愛水準は高い方を基準とされてしまうので、同様なサービス業であっても他より優れていることは評価されずに当たり前とされ、そこに劣る全ての競合者は「至らない」と否定的評価を受けてしまう。サービスを提供する側がナルシシスティック=結果主義的であるなら、サービス提供の姿勢よりも客からの評価が行動基準となるため、おもてなし精神は一層エスカレートしていく。だがそこには相手への真の思い遣りから来るポリシーとしての「おもてなし精神」は存在せず、客を満足させる(=客を満足という反応に操作する)ための方便としての「おもてなし精神」があるだけである。

年長者が現代社会に対して感じるありがたみというのも、このあたりに起因している。昔の自己愛水準を保ったまま現代社会を生きれば、特権を要求することなくいつでも殿様気分を味わえるだろう。逆に現代の更新された水準に慣れてしまい、それを当然のものと考えてしまうと、低い自己愛水準を期待される場面に出くわす度に不満を感じることになる。

各人の自己愛水準は、その人の人生のなかで形成されていく。人生のある段階までに、適量の欲求不満を積み重ねることで、自己愛は適切な程度に肥大を制限されて安定するのだろう。自己愛が肥大するままに任せて生きてきた人は、自己愛憤怒にまみれた苦しい人生を送るか、大きな挫折によって自己愛が粉々に打ち砕かれ、自身の自己愛水準の置き方を見失い、見直しを迫られることになるだろう。社会がどんなにお客様扱いを推進し、おもてなし精神を発達させようと、そこに便乗せず「いや、自分は大勢の客の中の一人に過ぎない」という認識を保てるかが、不満の少ない人生を送る上での鍵となる。おもてなし精神が随所に蔓延る現代日本においては、サービスの受け手の自己愛を肥大させる誘惑は強烈で、抗うには相当の心の成熟を必要とする。現代はますます人々にとって不満なく生きることの難しい世の中になっている。

かつては貴族や特権階級、大金持ちにだけ許されていたレベルのサービスが、一般大衆にも手の届くものとして広くアクセス可能になっている。低価格な高級“風”旅館、ブランド化された大衆車、映画のサブスク、SNSというWeb上の個人用「ステージ」、これらが大衆に提供されることで、「ちょっと努力すれば私にも特別が手に入る」という幻想が広まっている。だが大勢がアクセス可能ということは、必然的にそこへ参加する者の特権性は失われる。人々は「自分は特別だ/特別扱いされるべきだ」という幻想に浸っているだけで、実際には同じサービスを享受する大勢の中の一人でしかない。ところが自己愛水準は幻覚から生じるので、現実の自分に提示された水準と幻想との乖離に彼らは幻滅せざるを得ない。