現実的な努力とは

不健全な自己愛に駆り立てられた努力は莫大なエネルギーに裏打ちされ、ときに大きな業績をもたらす。そこでなされる努力というのは、地道で現実的な努力というよりも、幻想を追い求め、ついには幻想の一部を現実のものとしてしまうような半ば非現実的な努力ということになる。そういう人にとって、現実的で地道な努力というのはなかなか想像がつかない。おそらくナルシシストは結果の追求に必死で、手の届くところに結果が見えていないと努力することが難しいのではないか。だから結果に繋がりやすい事柄に関しては努力もする。いくつかの選択肢があった場合、全く新しいことへのチャレンジよりも、自分が成果を出せそうな挑戦を選択する。だがもっと壮大な、それでいて完成に長時間を要するような取り組みには挑戦しようとはしない。あくまで自分の想像できる範囲での実現可能性に縛られている。これは現実的ということとは違っていて、結果を重要視しているということだ。現在手の届くところよりも遥か遠くに理想があるような場合は、そこに取り組む過程で理想と現実とのギャップにナルシシストは耐えられない。健全な努力をする者は結果にこだわっていないから、どんなに理想が遠くにあったとしてもその過程を楽しむことができる。彼らはその過程を進むことそのものから自己愛を満たすることができる。彼らは結果に自分を重ねる快感に支配されていない。ナルシシストは常に結果を達成した自分を想像することで快楽を得、自己愛を満たす。そのためには現実の自分からは目を背けなくてはならない。これが現実主義者とナルシシストの物事に取り組む姿勢の違いである。一生懸命取り組む姿は両者とも似ているか、むしろ周囲にはナルシシストのほうが懸命に映るかもしれない。両者とも「努力家」の評判を得ることには違いない。だが過程そのものから自己愛を満たせる者のほうが、結果的には継続性に優れ、大きな物事を達成することができる。またそのような人生は、たとえ結果が伴わなくても一貫性からくる充実感に満ちている。ナルシシスティックな人生は、すべてが結果に左右され、たとえ結果が伴ったとしてもそこに至る姿勢の一貫性が失われており、そのせいでどんなに結果を残してもなんとなく空虚に感じられる。そして肝心な結果が伴わなければ、ますます空虚に感じられてしまう。

どんなに「良い」学校に進み、稼ぎのいい仕事に就き、「良い」伴侶を得て、子宝に恵まれても、これらが皆「達成すべき結果」としてもたらされたとしたら、その人の人生は空虚になる。どんな手を使っても第一志望に合格する、どんな手を使っても意中の人と結ばれる。どんな手を使っても子供を授かる。これらはいずれもナルシシズムの為せる業と言えるだろう。そうした意識から抜け出せないうちはナルシシズムからは脱却できていない。充実した人生において、進学、就職、結婚、これらは皆、自分の人生の姿勢の先に偶然に(必然的に)もたらされた結果なのだ。しかしこれらの事柄を意図的に「目的化」した瞬間に、その人の人生には空虚さが約束される。人間関係がその人を映し出す鏡であるように、その人の人生はその人の生きる姿勢を映し出す鏡となる。正しい生き方とは、できるだけ早期に「手段としての正しい理想」に出会い、そこに向かおうとする「目的としての健全な姿勢」を身につけることだ。ベクトルを正しい方向にセットし、あとはそのベクトルを着実に伸ばしていくことで、さまざまな良い結果がついてくる。いや、ここで言う「結果」にはそれ自体に良いも悪いもない。まっすぐに伸びたベクトルの線上にある点なら、いかにネガティブな内容であってもそれは「良い」ものなのである。「点と点が後から線になる」という人生についての従来の私の考え方は間違っていた。それはベクトルが正しい方向にセットされている場合の話で、ベクトルなしに点を繋いでいっても、やがて振り返ったときに一貫性のない自分を見つけるだけである。線の方向がどれだけ真っ直ぐに伸びているかが人生の充実感においては最も重要なのだ。伸びた線の先にある点を拾っていけばそれで良かったのだ。

長く結果だけを自己愛満足の対象としてきた者が、過程に満足を見出すことなどできるのだろうか?こうした文章を書く行為も、かつてはそれをどこかにアウトプットして皆の反応や賞賛を得る姿を想像することでエネルギーを供給され、続けることができた。メーリングリストでの情報発信、職場でのレクチャー、ブログへの記事の掲載、全てが承認や賞賛、達成そのもの、あるいは対象の行動変容を第一の目的として行われてきた。そうしたナルシシスティックな心理は、今となっても油断しているとすぐ心のなかに入り込んでくる。何であれ「誰かの目につくように行動する」ことには要注意だ。いま、この文章を少しずつ書くことで自分の内面が可視化され、人生への洞察が深まることで自分が満足している面が確実にある。その小さな歩みこそが大事にすべき過程であり目的なのである。人生への洞察が深まったことを他人に示して賞賛されること、他者より知的に勝っていることを示したり感じようとすることが目的であっては決してならない。自分の考えを他者に理解してもらいたいという気持ちは分かる。それは自分の姿勢にまだ確信を持てないからでもある。だが他者のより大きな存在意義は、共感を得る対象というよりも、自分の人生への洞察が深まった結果、良い関わり方ができるようになる対象ということにある。自己が成熟していくにつれ、他者との関わり方が変化していく。他者もまた自分の人生の姿勢を映し出してくれる鏡なのだ。よき理解者というのは必要だとしてもほんの一握りで良い。