我慢すること

幼児的な全能感、自他の一体感から脱却するためには自分の欲求を「我慢する」プロセスが必要である。それが自他の区別を生み、自分では思い通りにならないこともあるという基本的認識を定着させ、我慢という不満はやがて「諦める能力」へと成熟する。この一体感からの脱却過程が不十分だと、自分の幻想に現実を一致させようとするナルシシズムから抜け出せなくなる。そうした人にとっては、「我慢すること」=「怒りを感じること」でしかない。我慢とは自分の抱く幻想からの逸脱であり、我慢するたびに彼は幻想と現実の違いを見せつけられ、本人のナルシシズムが傷つくことで自己愛憤怒が生じる。一方、我慢できることを美徳と捉えることも考え方としては可能である。人によっては、自分が不便さに甘んじられることを自分の良いところと捉え、その度に自尊心を高めることもできるのだ。その人にとっては、不便さを我慢することに満足できるのは、人に親切にすることに満足を感じられることと相似な感覚と言える。そういう人では先に述べたように、「我慢の感覚」は「諦める能力」へとすでに昇華している。ナルシシズムが深刻な人は、幻想が世界の広範にわたるため、日常生活でも不満を感じることが非常に多い。仕事をしていても、車を運転していても、自分の体調についても、なにかと小さな不満を抱いてしまう。「気むずかしい人」というのは、このように健全な心の持ち主には理解のできない物事に対してさえ幻想に基づいた自己愛憤怒を生じる人ことを言っている。そういう人は、健全な人から見るとどこに怒りのスイッチがあるのか分からない。このような人がもし、自分が我慢できることに満足するという自己愛の満たし方を覚えたなら=諦める能力を身につけたなら、人生の感じ方は180度変わる。今までの不満が、すべて満足に置き換わるからだ。心の成熟のためには、私たちは幼少期から少しずつ、小さな我慢を覚えなくてはならない。人生の後半に向かうほど、諦めなくてはならない事柄は大きくなる。おやつの取り合い、クラスの席順から始まり、受験の失敗、失恋、職場の不満、思い通りにならない子供、大切な人との死別。そして最後には、全ての人が自身の生を諦めなくてはならない。その瞬間を平穏な気持ちでに迎えられるようになることが、心の成熟の最終目標である。