患者に化粧をして満足ですか?

「数字を治療するな。患者を治療しろ。」

医師としてこのような説教を誰しも耳にしたことがあるでしょう。実際のところ、我々は治療指標の多くを目の前にある数字に頼っています。血圧、心拍数、SpO2、体温、カリウム値、クレアチニン値、ビリルビン値、白血球数、、、ただしそれらの数字には、治療対象として妥当なものもあれば、そうでないものもあります。

例を挙げると、熱中症で中枢温が42℃に達している患者は、冷却によって中枢温をモニターしながらこの数字を治療の指標として用います。高体温そのものが中枢神経や各種臓器に害を及ぼしている原因(あるいは原因にごく近い指標)と考えられており、治療をすすめる上で現在の医療では体温以上に適切な指標をベッドサイドでは得られないので、この指標は妥当なものだと言えるでしょう。

また、高カリウム血症で何らかの治療が必要な場合でも、我々は血清のカリウム値を指標にしながら治療を選択します。これも、高いカリウム値そのものが不整脈等の原因であると考えられているためです。低血糖症のブドウ糖液補正などもこれに当たります。

急性心不全の患者で肺水腫を生じている患者がいるとしましょう。患者は30回/分の頻呼吸で、普段必要のない5L/分の酸素を必要としており、レントゲンでは両側肺野の透過性が少し低下しています。血液検査ではクレアチニン値が1.2mg/dLとステージ1の急性腎傷害を生じており、PaCO2が56mmHgと軽度貯留、pHも7.32とアシデミアを呈しています。その他、乳酸値が3.2mmol/Lと上昇し、ナトリウム値が132mmol/Lと軽度の低値を示しています。普段の生活状況や身体所見から、心不全の背景として血管内容量過多の状態を想定したあなたは、陽圧換気に加えて利尿剤を使用することにしました。

このときのあなたの治療指標はなんですか?普段、何を以て治療がうまく進んでいると判断していますか?

・頻呼吸が解消すればよい
・酸素需要がなくなればよい
・CO2貯留が解消すればよい
・アシデミアが解消すればよい
・レントゲンの透過性が正常化すればよい
・急性腎傷害が解消すればよい
・乳酸値が正常化すればよい
・ナトリウム値が正常化すればよい

このときの各指標は、冒頭の例のように「その数字を上下させるように治療する」という治療対象ではなく「何らかの治療をした結果、各数字が正常化していく」という病態の表現型でしかありません。従って、どれか1つの指標を取り上げて「この数字を正常化させる」という治療方法は、基本的に間違っています。冒頭の「患者を治療する」ということの意味は、この場合であれば「心不全の原因を除去すれば、患者の全身状態は改善し、現在異常値を呈している各指標も自ずと改善する」ということです。

ですが実際には「患者の全身状態」というのは時に掴みどころがなく、改善しているのか見た目には不明瞭な場合もあるでしょう。よって私たちは、分単位、時間単位で変化する何らかの特定の指標にすがりたくなります。

「酸素化が改善して良かった」
「CO2貯留が改善してアシデミアが良くなった」
「レントゲンが白かったのが改善した」
「本人の呼吸が楽そうだ」

これらはいずれも、各指標が異常な状態から正常な状態に近づいている場合に得られる感想であり、治療がうまく行っていることの現れのように思えます。冒頭の例のように、その指標の正常からの逸脱が直ちに人体に害を与えるような場合、その指標をひとまず正常化させることには一定の価値があります。SpO2 60%の患者には直ちに酸素を投与しますし、収縮期血圧が50mmHgの患者にはとりあえず輸液と昇圧剤を開始します。

しかし、指標の逸脱が一見有害であるような場合でも、それを正常化することが必ずしも最善ではないケースもあります。例えば敗血症で収縮期血圧が80mmHgしかないショックの患者で、心拍数が150回/分であったとしましょう。このようなケースでは、心拍数はβブロッカーを用いて80回/分にコントロールするものではなく、輸液や昇圧剤の投与によって敗血症の治療を行うことで自然と正常値に近づいていくものです。心拍数を意図的に下げようものなら患者の心拍出量は低下し、LOSを発症した患者は短時間で致命的な転帰を辿ることでしょう。

・敗血症性ショックや出血性ショックでの頻脈
・気管支喘息発作やCOPD増悪での頻呼吸

これらは治療対象としてはいけない、重症病態の表現型です。私たちはまず、その治療指標が「即時の治療対象」なのか「病態の単なる表現型」なのかを区別する必要があります。即時の治療対象になり得るものとして、SpO2(PaO2)値や血圧値、カリウム値、血糖値などがあります。ただしこれらの指標も、即時の治療対象となるのは、あくまで正常から大きく逸脱した場合であり、正常値に近づくにつれ、治療に求められる即時性は薄くなります。同じ指標でも、取る値のレンジによって、即時の治療対象となったり、単なる表現型となったりします。例えば、pH 7.25は異常ですがその数字自体は即時の治療対象とはならない一方、pH 6.80は重症病態の表現型であると同時に即時の治療対象となり、私たちは重炭酸の投与や透析で対応します。

同じレンジでも、病気の種類によって指標の性質が変わることもあります。脳出血では通常、収縮期血圧200mmHgは降圧の対象ですが、脳梗塞では積極的な治療対象ではなく、220mmHg程度に上昇してはじめて降圧剤の投与が検討されます。もう一つ例を挙げれば、体温もそうです。感染症診療では通常、体温そのものは治療対象ではなく、解熱に大きな治療的意義はありません(科学的に証明されていません)。一方、冒頭の例のように熱中症では体温を積極的に正常化しますし、低体温症でも同様です。心肺蘇生後の集中治療管理においても体温を目標通りにコントロールすることが推奨されています。

大まかに言って、ある指標は正常からの逸脱が非常に大きくなると即時の治療対象となるものが稀にあり、ほとんどの指標はその値にかかわらず直接の治療対象とはなりません。透析の目的はクレアチニンを10mg/dLから正常値に戻すことではありませんし、ビリルビンが15mg/dLだったとしてもビリルビンを除去するわけではありません。値の補正が生理学的な観点から自明なもの以外は、治療対象とはなりにくいのです。

大きく分けると、私たちが目にする治療指標は次の3つに分けられます。

(1)即時の治療対象
(2)治療対象とならない表現型
(3)治療対象となる表現型

(1)即時の治療対象
この指標を治療対象とする根拠は臨床研究による科学的根拠ではなく、生理学的観点からの自明な結論による場合がほとんどです。血圧50mmHgでは人は長期間生存できませんし、SpO2 60%でも長くは持ちません。心拍数20回/分は原因はともかくとりあえず心拍出量を維持するためにペーシングを行います。こういった指標について、その状態で放っておく人たちと治療する人たちを比べるような臨床研究は倫理的に不可能ですので、科学的根拠を持たせることは困難です。EBMが現代医学の代名詞となってはいますが、実際には私たちの日常診療の多くはこうした自明の結論による診療で構成されています。

・脱水症には輸液をする
・細菌感染症には抗菌薬を投与する
・心肺停止したら胸骨圧迫を行う

いずれも私たちの診療の大原則で、誰もが行っているものですが、その根拠の裏付けは比較試験によるものではなく、「自明性」によるものです。輸液は何を指標に行うかは議論になっても、輸液を行うことの是非については議論されません。抗菌薬の種類や投与期間は議論されますが、投与しない人はいません。胸骨圧迫のスピードや深さは改定の余地がありますが、胸骨圧迫が行われることが前提です。

(2)治療対象とならない表現型
感染症で体温が39℃あることは免疫応答の結果であり、解熱して36℃にすることに治療的意義はありません。額に濡れ布巾を当てることが看病のイメージとして定着していることを考えれば、古くは体温を正常化することが治療に有効と考えられていたのでしょう。しかし現在ではその直感は否定されています。同様に、白血球が上昇しているのも免疫応答の結果であり、血液中の白血球をフィルターで除去して数を減らしても害こそあれ何の益もありません。これらは全て、病気の結果であって原因ではないのです。私たちがベッドサイドで得る指標の大部分がこのカテゴリーに属しており、治療の結果としてのこれらの数値の変化の集合を観察して、治療が奏功しているか否かの評価を下しています。

(3)治療対象となる表現型
このカテゴリーは(1)を含むように思われますが、(1)のように生理学的観点からはその指標を治療することの妥当性が自明でないものが該当します。しかしその指標を放置することが、実はもう少し長い目で見た際に有害である場合もあるでしょう。このカテゴリーは私たちが「エビデンス=科学的根拠」と呼ぶものと最も関係が深く、同時に最も物議を醸すものでもあり、今回の記事のメインテーマになります。

放置してもすぐには致命的とはならない。しかし長いこと放っておくと実は患者に害を為しているーーこれは治療する側からすると怖ろしいことです。このような因子の存在こそ、私たちがいろいろな指標を「正常化」したくなる動機の源です。どれが危険因子かは分からないが、とりあえず全て正常値に近づけておけば安心だろうーーこうした考え方に蝕まれている医師が本邦だけでなく世界中に溢れかえっています。ですが思い出してください。敗血症の頻脈をβブロッカーで「正常化」した患者がどのような転帰を辿ったか。「適切な状態にする」ことと「正常値に近づける」ことは全く別物です。(2)の中には、実は「治療対象としてはいけない表現型」が含まれており、それを誤って(3)だと思いこんでしまうと不幸が起こります。

集中治療を受ける多くの患者は貧血を合併しています。普段の健康診断でヘモグロビン14g/dLや15g/dLといった数字を見慣れている人にとって、10g/dLや8g/dLといった数字は放置してもすぐには死にませんが非常に低い値に思えますし、早く正常化したくなる気持ちも分かります。しかしこうした患者にすべて輸血をするかというと、そうではありません。古くは輸血を行っていましたが、研究を重ねることで集中治療患者の貧血の多くはただの重症病態の表現型であり、治療しても寿命が延びたりしないことが示されてきたのです。我々は一般的に、活動性のない出血では7g/dL未満とならない限りは輸血を控えます。ヘモグロビンは軽度の低下状態ではカテゴリー(2)に、高度の低下状態ではカテゴリー(3)に該当します。

ある病気の表現型が治療対象となるためには、正当な「目的」が必要です。「Hbを14g/dLにする」というのは正当な目的ではありません。正当な目的とは、患者にとって意味のある利益を指します。寿命が延びる、元気に暮らせる時間が増える、自分で歩けるようになる、透析に頼らず生活できる、人工呼吸器に繋がる時間が短くなる、等々、利益の性質や程度は様々ですが、単に数字で正常値を達成することとは違います。数字が目的となるのは生理学的に自明な場合のみです。SpO2や血圧の例のような生理学的な自明性が無い場合に治療目的を示すことは簡単ではなく、ある程度の理屈=仮説に加えて、実験による証明が必要になります。

「生存する可能性が高まるからクレアチニンが2倍になったら透析をして正常値にする」
「自立して退院できる可能性が高まるので頭蓋内圧を20mmHg以下に保つ」
「人工呼吸器離脱を早めるからPaCO2を40±5mmHgで管理する」

これらは全て架空の例ですが、治療とはこういった目的をもつ介入の集合で構成されています。

では、そのように実験に裏打ちされた「治療対象とすべき表現型」にはどんなものがあるのかというと、実はほとんどありません。ICU患者で言えば、ナトリウム値を140に近づけようとすることも、ビリルビンを除去するデバイスも、10mL/hしか出ていない尿を100mL/hに増やす投薬も、数字の変化自体が目的であれば本質的には無意味です。

しかし現代医療では、この表現型としての指標がしばしば悪用され、資本主義の食い物にされています。ある指標の「正常化」を「患者の改善」という本質とすり替え、指標の正常化を目的とした投薬や介入が「標準治療」として私たちの日常診療に音もなく紛れ込んでいます。

・A薬の投与により炎症のマーカーであるIL-6が低下した
・B薬の投与により血液凝固能の指標であるAT-Ⅲが正常化した
・C薬の投与により死亡率と関連しているナトリウム値が正常化した

「死亡率と関連している指標」を正常化するというのは、なんとなく魅力的に聞こえます。因果関係はなくても、死亡と関連しているのであれば治療すべきでは?と考える人も多いようです。しかしもう一度思い出してください。敗血症において頻脈はおそらく死亡率と関連していると思われますが、頻脈だけを取り上げて数字を治療したらどうなったでしょうか?重症喘息発作で頻呼吸の患者に呼吸数を正常化させようと鎮静薬を投与したらどうなりますか?

先週の製薬会社のカンファレンスで紹介されていたDICの治療薬は、患者にどんな益をもたらすと言っていましたか?「炎症マーカーの数値を低下させた」と言っていませんでしたか?48時間でウイルス量を30%減少させる抗ウイルス薬は患者にとってどんなメリットがあるんですか?いつも膵炎で使っている蛋白分解酵素阻害薬は、酵素を阻害して何を良くしてるんでしたっけ?

よく、心不全でナトリウム値を正常化しようとする人がいます。重症患者では低ナトリウム血症を合併している例が多いのですが、これは急性期のストレスホルモンの1つであるADHの分泌増加など、多くの要因によるものと考えられています。重症病態の表現型の典型です。死亡率との関連も示されています(PMID: 19847398, PMID: 31914877)。急性心不全においても、低ナトリウム血症はよく見られる合併症です。しかしこの低ナトリウム血症は病態の表現型ではあるものの、現段階で治療対象としての地位を獲得するには至っていません。良質な大規模ランダム化比較試験でナトリウム値の正常化が生命予後など何らかの患者中心のアウトカムを明確に改善すると示されたことがないのです。「因果」ではなく「関連」しか示すことのできない後ろ向き比較試験などを根拠にこのプラクティスを実行しようとする人もいますが、前向き試験が倫理的に可能な場合、それでは不十分です。

ナトリウムの補正には手と金がかかります。採血回数の増加、投薬薬剤の増加、それに伴うスタッフの労働負荷や針刺しリスク。高価な利尿剤などを用いて補正しようとする場合は尚更です。投薬は金銭的コストに加え、アレルギーのリスクを必ず付帯します。それら全てのコストに見合った益が確実に上がるというのであれば、実行に移すのもあるいは妥当かもしれません。益の確実性を示すには中途半端な後ろ向き試験ではなく、上述のように大規模ランダム化比較試験が必須です。新しい薬剤を使用する場合は伴うリスクも大きいため、特にそうです。「もしかしたら良いことがあるかもしれないから」という理由で闇雲にコストを増やすことは、限られた医療資源で最善の治療を行うよう国から付託されている私たち医師にとって本来許されないことなのですが、どうもそのあたりを認識していない人が多くて困ってしまいます。

「人的、物的コストは確実にかかるが、効果があるかは定かでない」
既にある程度の標準治療が存在している場合、こういう類の介入は実行しないのが正解です。

現実に、今日まで急性期医療において蓄積されてきた科学的根拠の多くは「これまで行われてきた手間のかかる介入は実際は不要である」という類のものばかりであり、新しい積極的介入が推奨される例は稀です。

・術後の抗菌薬投与は不要な場合がほとんどである(PMID: 28467526
・膠質液には期待されるほどの循環維持効果はない(PMID: 15163774
・COPDのステロイドは14日間ではなく5日間でよい(PMID: 23695200
・7g/dLまでは赤血球輸血は不要である(PMID: 10318985, PMID: 25270275
・SpO2は90%以上あればよい(PMID: 33471452

どれも今までの慣習的な介入を削っていこうという「引き算の医療」です。なぜこういった結論が多く導かれるのかというと理由は簡単で、ある介入を「やめる」ことは、常に「コスト削減」「労働負荷の削減」「介入に伴う合併症の消失」というメリットと確実にセットになるからです。それまで行われていた介入に多少益があったとしても、その益が非常に小さければ、やめることで得られるメリットが勝ることだってあり得るのです。(参考:悪用される非劣勢試験

現代医学は、新しい治療法を発見していくことで進化していくように捉えられがちですが、その理解は間違っています。もちろん一部の難病においては、分子標的治療薬などの画期的な新薬が治療を大きく進歩させることがあるのは確かです。しかしほとんどの医師が日常的に直面する分野での医学の進歩とは、既存の慣習的医療行為のうち無駄なものを削ぎ落とすことで治療が洗練されていくことを意味します。筆者は約10年目ほど臨床医学に携わっていますが、その間にも随分いろいろなことを「やらなく」なりました。

・MONAはアスピリンだけになった
・血圧が高いだけでは救急では降圧しなくなった
・気胸に胸腔チューブを入れないことが増えた
・虫垂炎を手術しないことが多くなった
・心肺蘇生にバソプレシンは使わなくなった

この先も私たちの診療を変えていくのは、主に「新しい治療の導入」ではなく「既存の治療からの撤退」であることは疑いの余地がありません。

私に言わせれば、ICUでナトリウム値を正常化しようとするのは、救急に運ばれた顔色の悪い患者の顔に頬紅を塗って「ほら、顔色が良くなったよ。これで安心だ!」と喜んでいるのと全く同じです。あなたは患者にブランドものの高級化粧を施して、それで満足ですか?